真幸くあらばまた帰り見む (マゾヒズムに花札を!より)  ~ 『死出の旅路は…』 ~ 犬養万葉全開の『万葉カテゴリ』連動投稿です

IMG_3554.JPG
正月の我が庭の主人公は、寒ギクとこれ、いつぞやおつとめ品で商品タグすらない状態で買い求め植えといた未詳の木の蕾です。
#Grokくんに聞いたら、これってサンタンカらしいってことてすけどね。
ふふっ、この桃色ボンボリが一杯付いてる、これからが楽しみです。

さて本日はまた『マゾヒズムに花札を!』パクリ返し復刻を。
そう、松 - 1月 は流石に投稿が多い、ネタには事欠きません。
枕とは別の木になってしまいますが、それもまた苦しかるーまい、以下となります。

真幸くあらばまた帰り見む
(2006年)

松5fff3bec5.gif
松の5点札の赤短冊には「あかよろし」五文字が記されています。
これは「明らかによい」という意味です。

松はおめでたいとされる植物、それは多分常緑樹で一年を通じて青々としているから。
投稿日付に拘らず、一昨日お話しました。
植物の葉緑素は光合成により、酸素を作り出します。
動物は植物の作り出した酸素により生命を保っている、言ってみれば植物の寄生虫のようなもの。
だからこそ、緑を大切に、ということになるのですが、それはさておいても、一年を通じて青々としている松が「おめでたい」「明らかによい」とされるのが、このことに起因するのではないかと仮設するのは荒唐無稽ではないでしょう。
ここに、万葉集・有間皇子の歌があります。

磐代の 濱松が枝を 引き結び 真幸くあらば また帰り見む


有間皇子は孝徳天皇の皇子。謀反の罪で捕らえられ、牟婁(ムロ)の湯(=白浜)に護送される途中で、この歌を詠みました。
間違えなく処刑される。やがて自分の命は終わってしまう。
そんな状況の中、枯れることのない松の生命力に憧憬を感じたのかもしれませんね。

続けて詠まれた、この歌の方が有名ですね。

家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る


主情的なことばを使わないこの歌の裏にある皇子の心情を、皆さんはどのように推測しますか?
我が家にいたならちゃんと食器に盛り付けて食べられるのに、旅に出ちまうと葉っぱが食器代わりか、不便なことで、とほほ、ですか?
いやもう一歩進んで、なんだよ、木っ端役人の野郎!? 蒸しあがった飯をそこいらにある葉っぱにのっけて「さあ食え」って突き出しやがる、こんなメシが食えるか! ですか?

結論を言えば、そうでないです。
いや確かに昔、戦前くらいまではそういう解釈が有力だったんですがね。
今は、土地神に対する感謝の念、とするのが通説です。

100%帰れる見込みがないのにも拘わらず旅の無事を祈った、その健気な歌の直後に、「とほほ」や「食えるか!」は不自然ですよね。

と、この言い回し、



死出の旅路は…

を丸写ししました。

………
………

わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!


はあ…
意外や意外、『目指せ!! 平成の女蜀山人!』の元稿『死出の旅路は…』は、まだ掲載してなかったんですね。
話の流れで、タイトルが出てきたことはありましたが。
これ、犬養万葉!って内容ですので、女蜀山人珠玉の稿です。

死出の旅路は…

2005年05月12日


家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る


しい00990c15.png
巻二・一四二、有間皇子の挽歌です。
有間皇子は孝徳天皇の皇子。謀反の罪で捕らえられ、牟婁(ムロ)の湯(=白浜)に護送される途中で、この歌を詠みました。

主情的なことばを使わないこの歌の裏にある皇子の心情を、皆さんはどのように推測しますか?
我が家にいたならちゃんと食器に盛り付けて食べられるのに、旅に出ちまうと葉っぱが食器代わりか、不便なことで、とほほ、ですか?
いやもう一歩進んで、なんだよ、木っ端役人の野郎!? 蒸しあがった飯をそこいらにある葉っぱにのっけて「さあ食え」って突き出しやがる、こんなメシが食えるか! ですか?

結論を言えば、そうでないです。
いや確かに昔、戦前くらいまではそういう解釈が有力だったんですがね。
今は、土地神に対する感謝の念、とするのが通説です。

まず皇子は、この直前に、

磐代の 濱松が枝を 引き結び 真幸くあらば また帰り見む


と詠んでます。
100%帰れる見込みがないのにも拘わらず旅の無事を祈った、その健気な歌の直後に、「とほほ」や「食えるか!」は不自然ですよね。

それに、かつてこの土地には、椎の葉にご飯を乗せて神様に捧げる風習があったらしいのです。
犬養先生が地道に足で稼いだ情報とのことでした。

さて私はこの話で、ずっと後の時代の人物である石田三成のことを思い出しました。
やはり処刑された三成、どの小説、或いはドラマだったかは失念しましたけど、やはり似たような逸話があったですよ。
最後の晩餐を終えた三成は、デザートに勧められた柿を「体が冷えるからいかん」と言って辞退する、
と、周りの空気で天然ボケをかましたことを察し、「そうであった」と笑う、
どこでしたっけね?

以上、三成の天然ボケに奥ゆかしさを感じる ミユ の投稿でした。

(5月15日)

掲示板にてご指摘をいただきました。
偶々手許に件の図書がありましたもので、該当箇所の全段を記しておきます。

>「家にあれぱ」の歌は、戦時中にたんなる寂しい旅情とみて皇室の祖先の質素を賛えたのは別として、戦後はこの暗い史実にもとづいて考えられ、椎の葉に盛ってたべさせられる冷遇への怒りや悲しみとして多く解釈されている中で、一部に椎の葉に盛るのは神饌ではないかとする説があった。
>皇子の二歌が同じ題詞のもとにあるし前歌が道の神への祈りであるように、これば神饌ではなかろうか。
>こんにち岩代の土地では、この歌とはまったく無関係に、子供が生まれで三〇日経過後の朔日または一五日には、米の粉をこねただけで煮てないタンゴをヒトゲと称して、かしの葉に二つひとかさねにして、東西の氏神に供える風習を伝えているのも一つの傍証となるのではなかろうか。
>偶然ながら両社が椎の小森につつまれているのもおもしろい。

うーん、椎のCGを掲げての元文は、しい 的だったかもしれませんね。
樂々 さん、どうもありがとうございました。

犬養先生は、歌は時と場所を同じくしなければ作者の意図を正しく知りえない、とのポリシーで歌の詠まれた土地を自らの足で歩いていらっしゃいました。
晩年でも、1日40キロメートルは歩けると豪語してらっしゃいましたっけ。
この話は機会がありましたら、また。


と読んでみると、かつての誤解釈のもうひとつに触れてませんでしわ。
戦争たけなわの頃、このとおり我が皇室は古くから質素であられた、だから臣民欲しがりません勝つまでは、なんての。
それこそ恣意的なプロパガンダにせよ、かかる解釈もあったのは事実です。

さて、これで万葉カテゴリに石が置けましたね。
日曜の万葉噺がしやすい、

さしずめ、逆『マゾヒズムに花札を!』連動と云ったとこです。

114-29-GenjiUtaCarta-Shoseido-LateMeiji.jpg