壬申パワー (マゾヒズムに花札を!より)  ~ 『このネタはもう少し早くに出すべきだったのでしょうが』 ~ 仲秋の名月と若貴兄弟と

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はーい、本日は待ちに待った仲秋の名月です。
そう、文字通り待ちに待った…
繰り返してるとおり今年は閏6月があったので、その分遅れてるんですよねえ。
10月になってからのお月見も珍しい、ですので、『マゾヒズムに花札を!』の10月復刻にお月見が出てくるわけがない、今日は全然関係のないとこからです。

壬申パワー

2006年10月05日 07時20分08秒 | 紅葉 - 10月

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投稿日付に拘らず前に述べてきたことの復習から入りましょう。
ごらんになってピンと来ない方がいらっしゃるようなら、どうかご面倒でも該当投稿を探して先にお読みください。

花札の1~3月は色々な意味で共通項を見出すことが出来ます。
ですから、絵札を集めた三光(表菅原)、短冊札を集めた赤短(裏菅原)が、競技において裏表の出来役になるのはなるほどと理解できます。
これに対して、6・9・10月には特段の共通項を見出すことができない、
にも拘らず、表-猪鹿蝶 裏-青短 になる。
なぜなのか調べてみたのですが、未だに判りません。
その代わりでいうわけでもありませんが、花札をイリュージョンしたセガの看板ゲーム、『サクラ大戦』にこの月に関連する話題がありますので、今日はそれを話題にしましよう。

『藤枝あやめ』というキャラクターが出てくることは5月・菖蒲で書きましたよねえ。
次回作で登場したあやめの妹の名前が、『藤枝かえで』なのです。
桜、藤、あやめならきちんと連続3ヶ月がするけど、最後がかえでになってしまうとひと月だけ飛んでしまう。
まあ、偶然でしょうけど似てます。

そうそう、この二人は正反対の性格という設定になってます。
きょうだいというものは、とかくそうですよね。
意識的にそうなっていくのでしようか? こいつとだけは同じであってたまるか! ってな感じで。
そのくせ見た目はよく似ている、だから余計癪に障るわけで。
古来、きょうだい喧嘩というのは枚挙に暇がありません。

少し前にもありましたよねえ。
昭和の名大関・初代貴乃花のニ子山親方が亡くなったときです。
まあ、なんと申しましょうか? 両雄並び立たず、これが身近な兄弟ということになれば争うのが普通、ということになってしまうのでしょうか?
ということで、日本古代史を紐解く上で絶対の絶、避けては通れない『兄弟喧嘩』である壬申の乱の話をしましょう。

まあ、天智天武の兄弟も鎌足が生きている間は表立って争いもせずやっていたのですが。
その潤滑油がなくなってしまうと、お決まりのコースです。
天智天皇は弟であり皇太子である大海人皇子(天武天皇)を遠ざけ、実子である大友皇子を世継ぎとすべく画策を始めるわけですね。
そして、病床に臥すと枕元に大海人を呼び寄せ、帝位を譲るといいます。
それが罠だと察した大海人は、僧になると称して吉野に逃れるわけですが。

天智天皇の死を知るや大海人天皇は吉野を出て、大友皇子(弘文天皇、ただおそらく即位もしてなかったと思う)を打ち破る。
わずか40人で出発して1月足らずで天下を統一してしまった、まさに神業が『壬申パワー』。
万葉集繚乱時代を彩り、そしてそれは退廃の孝謙時代まで持続します。

み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を  (巻1-25)

淑き人の 良しとよく見て 好しと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見 (巻1-27)


この二つの歌は、いずれも天武天皇が吉野を詠んだものです。
苦しかった潜伏時代と壬申パワー全開時代の好対照な心底が感じられますね。
 
と、この言い回し、



このネタはもう少し早くに出すべきだったのでしょうが

を丸写ししました。

………
………

わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!


これ、上手くパクってくれてますねえ。
『目指せ!! 平成の女蜀山人!』の中心ネタともいえる壬申の乱の解説投稿を、ものの見事に全く似ても似つかない花札噺に仕立て上げてる。
流石パクリのおっさん!

…なんて、実際に書いてるのは私、パクリのおっさんが私のサイトをパクった、って想定の元のBLOGがマゾ花でした。
元稿は以下です。

このネタはもう少し早くに出すべきだったのでしょうが

2005年06月16日


み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を  (巻1-25)

淑き人の 良しとよく見て 好しと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見 (巻1-27)


吉野604cad7e.jpg

昭和の名大関・初代貴乃花のニ子山親方が亡くなって。
やはり、といっていいでしょう。始まりましたねえ、若貴兄弟の確執…
まあ、なんと申しましょうか? 両雄並びたたず、これが身近な兄弟ということになれば争うのが普通、ということになってしまうのでしょうか?

と、いう事で、『壬申パワー』のご説明をするのは、この機会をおいて他に無いでしょう。
壬申の乱、日本古代史を紐解く上で絶対の絶、避けては通れない『兄弟喧嘩』ですね。
詳細については、解りやすく解説してる頁をみつけましたので、ご覧になるといいでしょう。

まあ、天智天武の兄弟も鎌足が生きている間は表立って争いもせずやっていたのですが。
その潤滑油がなくなってしまうと、お決まりのコースです。
天智天皇は弟であり皇太子である大海人皇子(天武天皇)を遠ざけ、実子である大友皇子を世継ぎとすべく画策を始めるわけですね。
そして、病床に臥すと枕元に大海人を呼び寄せ、帝位を譲るといいます。
それが罠だと察した大海人は、僧になると称して吉野に逃れるわけですが。

天智天皇の死を知るや大海人天皇は吉野を出て、大友皇子(弘文天皇、ただおそらく即位もしてなかったと思う)を打ち破る。
わずか40人で出発して1月足らずで天下を統一してしまった、まさに神業が『壬申パワー』。
万葉集繚乱時代を彩り、そしてそれは退廃の孝謙時代まで持続します。

冒頭の二つの歌は、いずれも天武天皇が吉野を詠んだものです。
苦しかった潜伏時代と壬申パワー全開時代の好対照な心底が感じられますね。


これまた懐かしい時事噺を枕に。
いやいや、懐かしい、っていうよりも正直記憶にございません。

若貴兄弟なんてのが未だ話のネタになる時代の記事だったんですね。

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