ひめゆりの塔 ~ 西田昌司参院議員はどういうつもりで、あんなバカげたことを言い出したのか? ~ 発言ノーカット&碑全文付き

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なま物は腐らないうちに、
つーことで、本日も2発目の記事を入れましょう。
標記に付き巷間喧しくなっているので、政治やら議員やらには全く関心のない齋藤杏花(さいとうあんな)も野次馬参戦という訳です。
早速に件の発言のノーカットをご覧頂きましょう。

うーん、予想以上に過激、ってか思い切った事を言ってますねえ。
聴衆の喝采を狙ったのかな?
ま、齋藤杏花(さいとうあんな)自身も、投稿カテゴリ名を見て頂けばお分かりのよう、ひめゆりに関してはあまりいい印象を持ってませんので、快哉を覚えるとこはあるのですが…
問題は前提の真偽なんです。
友軍に殺されたのを敵の米軍が助けたなどと本当に記されてるもんなんでしょうか?
Grokくんに確認してみました。
ひめゆりの塔の碑の全文。わかりますか?

ひめゆりの塔の記


昭和二十年三月二十四日島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒二百九十七名は、軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。

四月一日米軍は沖縄本島中部西海岸に上陸し、戦闘は日一日と激烈を加え、連日連夜の砲爆撃によって南風原陸軍病院は機能を失った。
日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜、南風原陸軍病院は重傷患者を壕に残し、歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし、砲弾をくぐり、繃帯をちぎって道しるべとして、ここ摩文仁村に移動した。

六月十八日軍命により看護隊は解散を命ぜられた。翌十九日朝、米軍の猛烈なガス攻撃により、この壕に避難していた学徒の大半は尊い生命を奪われた。その数、百三十六名。他の戦場で死亡した学徒を加えて、両校合わせて二百二十七名の職員生徒がこの戦禍に倒れた。

この塔は、幾多の苦難をなめつつも生き残った同窓生達が、亡魂を慰め、永遠の平和を祈念して建立したものである。

昭和二十一年四月七日

ひめゆり同窓会

…こいつはいけません。
捏造を捏造したのは議員だと決め付けられても一言もないでしょうね。
世俗化したひめゆりを苦々しく思ってる私でも、これは庇い様がありません。
いやそれどころか…

これじゃ、それみたことかと沖縄ファッショが勢いづいて、逆効果もいいとこですよ。
ねえ?戦争記録に吉永小百合なんか出る幕じゃないのに。
小百合人気で、ひめゆりばっかが有名になっちまって、北でも同じ様なことがあったなどとは忘れ去られてしまう、
それ以前に、日本各地で非戦闘員のか弱き女性が無残にも焼き殺されてるという紛れない事実は、どうなってしまうのですか?
そうですよ、悪いのは戦争じゃないんだ、負ける戦争をやったのが悪いんです。
だから、憎むべき鬼畜米英に逆に諂うような潜在意識が、戦後80年経ても一向に消えることはない。
ひょっとして、この西田某も米帝の回しもんなんじゃないの?

兎も角、そう取られても仕方ないハチャメチャぶりでした。

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