三木一草 (マゾヒズムに花札を!より) ~ 『さてさて、狂歌に人名を織り込むお話』 ~ 先ずは訃報から、で御座います
三木一草 マゾヒズムに花札を! さてさて、狂歌に人名を織り込むお話 カラス 精霊の守り人 チャグム 板垣瑞生 俳優・板垣瑞生さん死去 24歳 SNSで家族が発表 藤 - 4月 藤浪の 花は盛に なりにけり 平城の京を 思ほすや君 渡部の 水いかばかり 早ければ 高橋落ちて 隅田流るらん 古典太平記 齋藤杏花 (さいとうあんな) 齋藤杏花 目指せ!! 平成の女蜀山人! 藤衣 古事記

お庭の話から入りますが、花ではありません。
カラスですよ、カラス!
なーんや、エラく流行ってるみたいでしてねえ。
2-3日前なんか、2階の書斎からふと外覗いて見たら、ちゃっかりベランダの手すりにとまってやがってねえ。
いや、最初は置物かと思いましたわ、でも鳥撃退グッヅのカラスは高えから見送ってたんでしたわなあ。
まあ、音立ててもすまーしてやがって。
あまり痛めつけて仕返しされてもつまんないもんで、静かに追っ払いましたけどね。
そんなカラスが集団で騒いでた昨日の朝のことでした。
冒頭画像にした、『精霊の守り人』のチャグムの人の、訃報が目に入ってきたんですよわ。
なんでも、行方不明になってたのが都内で遺体で発見されたとの、ショッキングな最期との事です。
そう、24…なんかやっぱあったんでしょうね。
TV視ない私は、少なくても詳細は知りえません。
第一、別の役者、『どうする家康』の井伊直政の人と混同してたくらいですから。
カラスが騒いでたのには、やっぱ、訳がありましたか、これも縁、合掌します。
とまれ、急に暖かくなりましたねえ。
こうなると、4月の花札・藤の話をするも不自然ではありませんか。
今日はこれを復元しましょう。
三木一草2006年04月05日 06時51分30秒 | 藤 - 4月
花札4月は藤、あまり印象に残らない藤ですが、日本では古来よりこよなく愛され用いられてきました。
古事記あたりにも藤衣(ふじごろも)なんてものが登場しますし、万葉集でも、
藤浪の 花は盛に なりにけり 平城の京を 思ほすや君
等々詠まれています。
さて、この藤ですが花札では『くさ』の扱いですよねえ、前にお話しました。
言うまでもなく実際は、マメ科・蔓性の落葉木本です。
まあ、昔の人は、つる性の植物なので草だと思ったんでしょう。
草、木。
『三木一草』をご存知ですか?
建武の親政の折に権勢を振るった四人のことです。
えー、草の付く苗字が1人、木が3人、誰でしょう?
正解は、名和長年・楠木正成・結城親光・千種忠顕 です。
何で名和長年が『木』なの? 受領名が伯耆守だから。名和ほう『木』。
ゆう『木』もその部類ですねえ。ほんと、楠木くらいしか分かりません。
楠木正成というのは古典太平記のヒーローです。
太平記といえば、南朝方の人間が書いた書物ですので、楠木正成がかっこよくかかけてますんですけど、まー、それを割りびいてもこの人は戦上手だったようです。
物語は正成再挙の段、本拠(河内)赤坂城を奪還した正成はその勢いでたちまち河内・和泉を制圧し、天王寺のあたりまで撃って出て、渡部(わたなべ)橋の南に陣を敷きました。
その数、五百乃至七百、といったとこですか。
渡部橋。今は大阪府大阪市北区堂島1にかかる橋ですけど、そのころは天満橋付近だったですね。
さて、それを聞きつけた六波羅北探題、鎌倉幕府京都支店ですね、北条仲時は、軍奉行の隅田次郎左衛門と高橋又四郎に五千の軍勢を与え、一気殲滅を図りました。
ところが、ところがですよ。
小勢には小勢の戦い方があるのです。
鶴翼の陣を敷いた楠軍は、橋にさしかかった五千の大群に3方からこれに撃ちかかりました。
なるほど、「面」でなく「線」を、「線」でなく「点」を攻めれば、逆に1対3の数の優位。
幕府軍は大混乱、なまじっか大軍だけに余計収拾がつかなくなり、殆どは討ち果たされ、川原も川岸も屍の山になってしまいました。
渡部の 水いかばかり 早ければ 高橋落ちて 隅田流るらん
敗走した隅田・高橋両奉行を待ち構えていたのは、京の町の至るとこに立てられたこの立て札でした。
と、この言い回し、
↓
さてさて、狂歌に人名を織り込むお話
を丸写ししました。
………
………
わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!
いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!
(;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!
あれれ!パクリのおっさん、噺したばかりの万葉歌知ってた…
んと、古典太平記の話でしたか。
『目指せ!! 平成の女蜀山人!』の元稿がこれです。
さてさて、狂歌に人名を織り込むお話2005年07月03日
なんか、賑やかなお客様がみえてますね。
と、いうことでございまして、少々古典太平記などから、いい例を記してみましょう。
太平記といえば、南朝方の人間が書いた書物ですので、楠木正成がかっこよくかかけてますんですけど、まー、それを割りびいてもこの人は戦上手だったようです。
物語は正成再挙の段、本拠(河内)赤坂城を奪還した正成はその勢いでたちまち河内・和泉を制圧し、天王寺のあたりまで撃って出て、渡部(わたなべ)橋の南に陣を敷きました。
その数、五百乃至七百、といったとこですか。
渡部橋。今は大阪府大阪市北区堂島1にかかる橋ですけど、そのころは天満橋付近だったですね。
さて、それを聞きつけた六波羅北探題、鎌倉幕府京都支店ですね、北条仲時は、軍奉行の隅田次郎左衛門と高橋又四郎に五千の軍勢を与え、一気殲滅を図りました。
ところが、ところがですよ。
小勢には小勢の戦い方があるのです。
鶴翼の陣を敷いた楠軍は、橋にさしかかった五千の大群に3方からこれに撃ちかかりました。
なるほど、「面」でなく「線」を、「線」でなく「点」を攻めれば、逆に1対3の数の優位。
幕府軍は大混乱、なまじっか大軍だけに余計収拾がつかなくなり、殆どは討ち果たされ、川原も川岸も屍の山になってしまいました。
そして敗走した隅田・高橋両奉行を待ち構えていたのは、京の町の至るとこに立てられたこの立て札でした。
渡部の 水いかばかり 早ければ 高橋落ちて 隅田流るらん
まあ、人名というのは織り込みやすいものですね、あはっ!
思えばです。
TV視ない、TV視ない、といいつつも、私って結構時代物は幅広く視てるんですわ、
少なくとも、女蜀山人当時はです。
そう、視ないのは、バラエティの類なんです。