『梅雪』『梅里』(2記事続けて『マゾヒズムに花札を!』からです) ~ その他、諸々の『パクられ』元記事をば
梅雪 梅里 マゾヒズムに花札を! 猫の日 竹島の日 梅 - 2月 穴山信君入道梅雪 徳川光圀 吉原 目指せ!! 平成の女蜀山人! 信玄の話から 続けてもう一項中国の話 則天武后 サディズムに花束を! 則天武后 - 中国歴史上で皇帝と名乗った唯一の女性 齋藤杏花 (さいとうあんな) 齋藤杏花

猫の日?竹島の日?
と、それには全く触れずにです。
このとこ巷の喧騒に巻き込まれ続きですので、せめて今日一日は穏やかに雅の世界(?)にでも、ってことで、『マゾヒズムに花札を!』の記事を2つ続けて出してみますか。
長くなりそうな本稿ですので早速行きます。
梅雪2006年02月20日 22時11分14秒 | 梅 - 2月
札2月は梅、短冊札には「あかよろし」の赤短が配され、種札には春告鳥・鶯が描かれる。
如何にも春の訪れを感じさせる風情です。
これが一つの梅の風情ならば、もう一つ、寒中の梅というのもまた梅の風情です。
そうですよねえ。新暦では2月はもっとも寒い時期でよねえ。
事実、積雪は2月が一番多いんじゃないかな? いやいや、誰かの住んでいるあたりは。
一旦ぬくみかけて梅が開いたものの、また雪が降り出すという光景もよく目にします。
雪中の梅…
梅雪…
つーことで、突然話は飛びます。
其疾如風(その疾きこと風の如く)
其徐如林(その徐なること林の如く)
侵掠如火(侵掠すること火の如く)
不動如山(動かざること山の如く)
難知如陰(知りがたきこと陰の如く)
動如雷震(動くこと雷の震うが如し)
お馴染み、武田信玄の旗印、『風林火山』。『孫子』が出典ですね。
『孫子』は春秋時代・呉の国の孫武の兵法を伝えたものとされ、例の三国志・曹操が注釈をつけ、現在の形となっているとか。
あっと、そんな話じゃなくて武田信玄といえば、どんな風貌だったでしょうか?
うんうん、でっぷりと太った坊主。
あまりにも有名な信玄肖像画ですね。
ところが、ところがです。
実はなんとこれ、信玄ではないのです。
家臣にして、親戚衆筆頭にして、甥にして、女婿の穴山信君入道梅雪の肖像らしいのです。
信玄という人は肺病持ち、それが原因で死んだと伝えられます。
このようにでっぷり体型になれる体質ではありませんよ。
それに、若い頃の痩せぎすの肖像もあるし。
と、この言い回し、
↓
信玄の話から
を丸写ししました。
………
………
わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!
いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!
(;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!
梅里2006年02月21日 17時53分17秒 | 梅 - 2月
梅雪はちと、つながりが悪かったですかな?
さてさて、同じく梅の字がついた人物の話題で、梅カテゴリに連日の投稿です。
梅里。これは誰のことか知ってますか?
ほら、水戸の黄門様のことですよ。
徳川光圀という人は、梅里と号してました。
梅の里住人。
うん、今でも水戸の偕楽園は梅の名所ですよねえ。
黄門様の昔もそうだったのでしょう。
加えて言うならば、水戸というのはイメージよりも北に位置します。
関東というよりも奥州と考えたほうが、当時の地理分類に近いかもしれない。
そんな土地柄ですから、梅の咲いたときの喜びは一段だったことは想像に難くはありません。
将に花札図柄そのもののイメージ、水戸黄門の遊び心が、花札を完成させていった江戸庶民のそれと根を同じくすると言っても穿ち過ぎでないと思います。
ああ、水戸黄門って人は文化人であると同時に有名な遊び人だったんですよ。
意外に感じた向きもあるやもしれません。
特に若いころはあの吉原に入り浸り、酒と喧嘩に明け暮れていたとか。
これには訳があります。
「水にせよ」
なんの意味だと思います?
水子にせよ、堕胎せよ、オロせ、ということです。
光圀の父である初代水戸藩主・頼房は、光圀の母にこう命じました。
というのはです。光圀の母というのは、非常に身分の人、正室は言うに及ばず側室にすらなれないような立場の人だったからです。
そんな卑女に手を出したことが公になれば、水戸藩主としてのスキャンダルねたになります。
ですので、かくのごとしなんですが。
でも光圀はちゃんと生まれてきた。そうですよねえ。
紆余曲折ありました。
家来がこっそり、光圀の母をかくまい、生まれてきた落胤を我が子として育てる…
やがて、頼房の元に引き取られ、なんと世継ぎにまで。
まあ、そんな訳で、徳川光圀という人は父に対する反発から、グレまくってたわけですが。
子供の頃に話を戻しましょう。
シンデレラボーイの光圀ですから、城内の者達からの突き上げはありました。
ことに口さがのない、女どもですよ。大人気なくも、年端もいかぬ千代松少年に「水にせよ」の話を聞かせてよこします。
ま、大ブームのいじめですな。
小説等によれば、流石の剛毅の千代松、のちの黄門様も傷つき、泣きながら那珂川で水練を指揮していた父の元に走ることになってます。
「父上、私は生まれてくるべきではなかったのですか?」
家康末子で同じく若い頃散々放蕩していた頼房は、それを聞き、やにわに光圀を抱え上げ、川に放り込みます。
「向こう岸まで泳げ。泳ぎ着けたら答えてやる。できないのならば、溺れて死ね!」
そして、褌一丁なって艪を漕ぎながら光圀を励まし、生きるということの意味を教えて聞かせるという話なのですが。
と、この言い回し、
↓
続けてもう一項中国の話
にたった今加筆されたばかりの部分を丸写ししました。
………
………
わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!
いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!
(;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!
はい、『パクられ』元の『目指せ!! 平成の女蜀山人!』記事は下記です。
信玄の話から2005年07月11日
其疾如風(その疾きこと風の如く)
其徐如林(その徐なること林の如く)
侵掠如火(侵掠すること火の如く)
不動如山(動かざること山の如く)
難知如陰(知りがたきこと陰の如く)
動如雷震(動くこと雷の震うが如し)
お馴染み、信玄の旗印、『風林火山』。『孫子』が出典ですね。
『孫子』は春秋時代・呉の国の孫武の兵法を伝えたものとされ、例の三国志・曹操が注釈をつけ、現在の形となっているとか。
と、三国志の話に結びつけたところで心置きなく信玄の話を続けましょう。
CGのでっぷりと太った坊主は、あまりにも有名な信玄肖像画ですね。
ところが、ところがです。
実はなんとこれ、信玄ではないのです。
家臣にして、親戚衆筆頭にして、甥にして、女婿の穴山信君入道梅雪の肖像らしいのです。
信玄という人は肺病持ち、それが原因で死んだと伝えられます。
このようにでっぷり体型になれる体質ではありませんよ。
それに、若い頃の痩せぎすの肖像もあるし。
なんでまた? と同じような例がありますのでまたご紹介します。
続けてもう一項中国の話2005年05月19日
人麻呂が持統女帝のペットであった可能性は極めて低いでしょう。
けど、
お隣の国の女帝・則天武后は、お気に入りの家来を舌人形(クリンガ)にしてたらしいですよ。
ここに書いておきましたんでご興味あれば。
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閉鎖後の翌年11/10
サディズムに花束を!より 2006年03月14日
則天武后 - 中国歴史上で皇帝と名乗った唯一の女性 (注:下記別枠にて)
さてさて、サディズムに花束を! 、とある騒動がきっかけとなり、今現在知る人ぞ知るところになってるようです。
ですので、ここは、原点・目指せ!! 平成の女蜀山人! 流に、話を進めることとしましょう。
則天文字・圀ですか?
八方を囲うってことでクニ、これもまた味があります。
とはいうものの、ホントですよ、この文字は徳川光圀以外の用例ではみませんよねえ。
逆言えば、水戸の黄門様がそれだけ有名人だということでしょう。
講談や演劇であまりにも有名ですので、くどくは説明する必要はないですよねえ。
則天武后と同じく、文化人であり、また遊び人でありました。
ああ、遊び人であったって方は、意外に感じた向きもあるやもしれません。
徳川光圀という人、特に若いころはあの吉原に入り浸り、酒と喧嘩に明け暮れていたとか。
これには訳があります。
「水にせよ」
なんの意味だと思います?
水子にせよ、堕胎せよ、オロせ、ということです。
光圀の父である初代水戸藩主・頼房は、光圀の母にこう命じました。
というのはです。光圀の母というのは、非常に身分の人、正室は言うに及ばず側室にすらなれないような立場の人だったからです。
そんな卑女に手を出したことが公になれば、水戸藩主としてのスキャンダルねたになります。
ですので、かくのごとしなんですが。
でも光圀はちゃんと生まれてきた。そうですよねえ。
紆余曲折ありました。
家来がこっそり、光圀の母をかくまい、生まれてきた落胤を我が子として育てる…
やがて、頼房の元に引き取られ、なんと世継ぎにまで。
まあ、そんな訳で、徳川光圀という人は父に対する反発から、グレまくってたわけですが。
子供の頃に話を戻しましょう。
シンデレラボーイの光圀ですから、城内の者達からの突き上げはありました。
ことに口さがのない、女どもですよ。大人気なくも、年端もいかぬ千代松少年に「水にせよ」の話を聞かせてよこします。
ま、大ブームのいじめですな。
小説等によれば、流石の剛毅の千代松、のちの黄門様も傷つき、泣きながら那珂川で水練を指揮していた父の元に走るということになってます。
「父上、私は生まれてくるべきではなかったのですか?」
家康末子で同じく若い頃散々放蕩していた頼房は、それを聞き、やにわに光圀を抱え上げ、川に放り込みます。
「向こう岸まで泳げ。泳ぎ着けたら答えてやる。できないのならば、溺れて死ね!」
そして、褌一丁なって艪を漕ぎながら光圀を励まし、生きるということの意味を教えて聞かせるという話なのですが。
今や「大ブーム」になってしまった子供の自殺…
命の大切さなどというのは、親が子供に教えることだ、と別記事に加筆した裏にあったのは、この小説のイメージです。
『アナ雪』の噺はすでにしてましたが、予想に反し『サディズムに花束を!』の則天武后は復元してなかったんでしたわ。
これです。
則天武后 - 中国歴史上で皇帝と名乗った唯一の女性2006年03月14日
同じく我が子をしいして帝位についた女性をとりあげよう。
女性でありながら皇帝にまで上り詰めたくらいであるから、彼女も相当に血なまぐさいことをした。
だが、なかなかの名君であったようだ。
政治だけではなく、文化の面でも功績あり。文字を作るといった業績も残してる。
水戸光圀の圀の字、これが則天文字である。
さて、『后』というくらいであるから、もともとはこの人は女官の出である。
若き日、太宗皇帝から癖馬の扱いを問われた折の逸話をひとつ。
「私なら先ず鉄鞭で打ちます。それでも従わなければ鉄署福闌・ノつきたててやります。それでもなお従わないときは匕首で喉をかっきってやります。」
因みに論者が同じ質問をうけたとしたら全く同じことを言ったであろうが、それはさておき。
二代の皇帝の寵愛を受けただけあって、則天武后という人は美しい女性であったようだ。
そして、非常に若作りだったようである。なんでも70歳過ぎても30歳くらいにしか見えなかったとか伝えられる。
にも拘らず、武后からは女性のイメージがあまり浮かばない。
なぜか? 上述の為政者手腕のせいもあるだろう。
が、それよりも大きいのは彼女の『遊び方』から、ではあるまいか?
お気に入りの家来に陰核をしゃぶることを許したり、美少年を集めたハーレムで乱交にふけったり…
将に男の遊びそのものである。
事実、臣下から乱行を咎められたおり、武后は「男の皇帝ならば…」と愚痴ったという。
性格面という切り口からすれば、皇帝としての則天武后はドミナントを通り越して『男そのもの』であったといえるのではなかろうか?
少なくとも論者には同性の匂いが感じられない。
ふうー…欲張りすぎたか。
思った以上に長くなってしまったので、本稿、何も言わずこれで終わりとしますわ。
最後、一輪見つけた庭のボケです。