『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第6回・鱗(うろこ)剥がれた『節用集』が放映されたとこで、再燃させてみたい『漫画文化論』

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つーことで、今度こそ正真正銘の"つーことで"、本日2発目の記事と行きましょう。
はい、ここんとこ恒例とし出した火曜大河噺です。
『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』、一昨日の第6回・鱗(うろこ)剥がれた『節用集』、ちゃんと視ましたよ。
調べてみるに視聴率は、前年の『光る君へ』と比べてもやや少なと聞きますが、なんの、前年の負の遺産を引き摺ってるせいとおもいますよ、
いや違うか、初回の裸問題の中傷に足引っ張られてるってのの方が大きいか、
どっちにしても人は人、齋藤杏花 (さいとうあんな)は十分に楽しんでおりますです。

第6回は『刺身の回』になりましたね。
それは目まぐるしく、各パートが動きました。
そうでしたか、前回の最後に出てきたのって、大坂の書物問屋、
江戸が出所と思われる海賊版を訴えに、熱田あたりまでやってきてたって逸話だったんですね。
城内も動いたわ、右近のばばさま、でない、白眉のじじさまが見事田沼に逆ねじを喰わせましたわ。
その憤懣やるかたないタイミングの煽りで、佐野政言がとばっちりを。
否、とばっちりは意知か、後の惨殺事件の布石がされることになりました。

勿論、我等が蔦重も精力的に活動、鱗形屋のお抱えとしてその副業に精を出し、協力して新しい本を作ろうとした矢先に、過日の地本問屋が仕組んだ罠を知る事になるのです。
複雑な心境のままでいたとこ、事態は目まぐるしく動き、鱗形屋の闇営業はあっさり発覚、お縄となる訳ですが、縄を掛けた役人ってのが、驚くなかれ。鬼平だった!
いやはやすっかり、伏線を仕掛けては回収していく大河のパターンになってワクワクです。

そうですか、やっぱ地本ってのはキワ物、地本の大手は書籍に手を染めたがってる…
今日は先週も言った 書籍 vs 地本の話を続け、膨らますとしましょう。
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復習です。
浮世絵、現在は江戸文化として誰しもに受け入れられてますが、これが発掘されたのは20世紀になってから、しかも欧州に端を発してのことだったんです。
だから、当時は文化として受け入れられてはなかった、幾ら流行ったとしてもイメージとするなら所詮は漫画雑誌の大手、当然いつかは本格的な本屋に、と考えるのが自然でしょう。
この点を頭に入れてなければ認識が違ってしまいます。
そうでしたよ、蔦重らが手がけたのは現代でいうならサブカル…
本稿はここからです。

逆方向から見るのなら、現代のサブカルクリエーター達が、自分らを文化の担い手、芸術家と自認してるかどうか、これが気になるんですわ。
我こそは現代の歌麿、写楽…
随分前でしたか、私・齋藤杏花 (さいとうあんな)が漫画は世相風俗であっても文化ではない、と言ったのは。
将に、それ、高々漫画描き風情が歌麿きどり写楽きどりでいるのを、鼻持ちならぬと唾棄したからなんですが、それがここに来て。
大河べらぼうによって、当時の浮世絵の評価を知り、それもまたアリかと思うようになったりして。
勿論、時代の評価を知った上でのことですよ。

えーっと、昨日は手塚・火の鳥の噺をしたんでしたね。
あんなのは文化芸術とみていいと思ってますよ。
なぜならば手塚治虫という人は時代等の背景でメディア、媒体として漫画を使ってただけで、漫画そのものを文化として売り出してたわけではなりのですから。
私が世相風俗と切り捨てたのは、手先が器用なのを利用して、ただの挿絵を芸術と気取る面々です、
あ、勿論、脱税なんてやる奴らは無条件によ。

いずれにしても文化芸術か否かの判定をするのは、歴史ということになりましょう。

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