春の七種 (マゾヒズムに花札を!より) ~ 『筑波の隣県住民から愛をこめて』 ~ アイコン画はGrokくんに担当して貰いました

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はーい、記事アイコンはGrokくんに担当して貰いました。
2025年(令和七年)の七種のアイコンに相応しいイラスト、と指定したら↑こんな画を寄越したって事です。
…どうもあんですねえ、あんま絵心はないみたいね。
文章だと打てば響くような答え返してくるGrokくんも画の依頼に関してはかくの如し、有料版だともっと的確になるのかしらねえ?
またWEB情報に矢鱈干支の動物が多いって情報偏食も推察できます。

で、七種粥なんですけどね。
参ったよ、今年ゃどこも売ってないわ。
例年、どこにだって必ず、レトルトのパックがあったというのに、今年はどうしたことでしょうか?
野菜コーナーにセットなんてのがある店はあったものの、あれ買ってきた日にゃウシンマが喰う程の量になっちまって、7人で懸命に喰っても到底喰いきれるものでない、それこそ食品ロスとかと、マスゴミの野郎たちに口汚く罵られるのが関の山です。
しゃあない、ってことで乾物屋でみつけた七種パウダーと粥の組み合わせで対処する事としました。

七草は年中行事では、七種と書かれる事が多いですね。
『マゾヒズムに花束を!』からの復刻です。

春の七種

2006年01月07日 01時07分17秒 | 松 - 1月

七種粥9b632d8f.jpg
さて、今日は日付に因んだ投稿をしましょう。
一月七日は、七種ですね。
年中行事として、七種粥を食べる風習のある日です。

芹(せり) 芹 セリ科
薺(なずな) 薺(ぺんぺん草) アブラナ科
御形(ごぎょう) 母子草(ははこぐさ) キク科
繁縷(はこべら) 繁縷(はこべ) ナデシコ科
仏の座(ほとけのざ) 小鬼田平子(こおにたびらこ) キク科
菘(すずな) 蕪(かぶ) アブラナ科
蘿蔔(すずしろ) 大根(だいこん) アブラナ科

春の七種は全部野菜で食べることができます。
まあ、その分だけ花がなくなった (秋の七草参照)、花札とは無関係になってしまいましたが、それはそれで進めましょう。
七種粥は、邪気を払い万病を除くとされます。科学的に見るなら、御節料理で疲れた胃を休め、野菜が乏しい冬場に不足しがちなビタミンを補うという、ということになりましょうか? 昔の人たちの生活の知恵、大したものです。
更に我々の祖先は、

  芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ、これぞ七種

五七五七七、風雅の道も併せて嗜んでいました。

五七五七七、ミソヒトモジですね。
原型は五・七・七だったったんですよ。
こんな感じ。

  新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる

  かがなべて 夜には九夜 日には十日を

倭建命(ヤマトタケルノミコト) & 御火焼(ミヒタキ)の老人(オキナ) 古事記<景行>

五・七・七の形式の歌を片歌といいます。
古事記も初期のころは4音や6音の句も見受けられましたが時代が経つにつれ、5音ないしは7音の句に落ち着いてきました。

さて、この歌ですが、倭建命が東国征伐の帰途、甲斐(カイ)の酒折(サカオリ)の宮に滞在した折のものです。
命が「新治…」と歌ったところ、かがり火をたく老人が「かがなべて…」と歌って答えた…これでひとつの歌の完成ですね。
述べましたように、片歌×2が旋頭歌です。

後に、この問答は連歌の起こりとみなされるようになりました。
連歌を「筑波の道」と呼ぶのは、そのためです。

と、この言い回し、



筑波の隣県住民から愛をこめて

を丸写ししました。

………
………

わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!


ん?筑波?
茨城でねえの!
そうなんだなあ。当時は2005-6年。
よもや後世、あのいやーなドロッ糞婆に遭遇するとなぞ、思いも拠らなかったとこです。

おっと、『目指せ!! 平成の女蜀山人!』のその『筑波の隣県住民から愛をこめて』でした。

筑波の隣県住民から愛をこめて

2005年06月09日


blog自体を少々弄ってました。
さて、今日はどこから入ったものか?
古事記のなかから、「便所の下から鏃で陰部をつつく」ってあれを書こうとも思ったのですが。
出遅れたから、また(←掛詞)の機会に、ってことで、今日は同じ古事記から「連歌の始まり」を行きましょう。


  新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる

  かがなべて 夜には九夜 日には十日を


倭建命(ヤマトタケルノミコト) & 御火焼(ミヒタキ)の老人(オキナ)

古事記<景行>

あのねのねdbf46c9e.jpg
五・七・七の形式の歌を片歌といいます。
古事記も初期のころは4音や6音の句も見受けられましたが時代が経つにつれ、5音ないしは7音の句に落ち着いてきました。

さて、この歌ですが、倭建命が東国征伐の帰途、甲斐(カイ)の酒折(サカオリ)の宮に滞在した折のものです。
命が「新治…」と歌ったところ、かがり火をたく老人が「かがなべて…」と歌って答えた…これでひとつの歌の完成ですね。
述べましたように、片歌×2が旋頭歌です。

後に、この問答は連歌の起こりとみなされるようになりました。
連歌を「筑波の道」と呼ぶのは、そのためです。

それにしても、筑波って和歌との関連が深いんですねえ。
万葉でもほら、他にもまだまだありますから乞うご期待!

そうそう、この人たちも昔、筑波の歌を歌ったのですって?
なんでも、放送禁止になったとか、あはっ!



筑波の道と、あのあのねのねの『つくばねの唄』↓
↑との化学融合で御座いました。