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読売新聞 日本史アップデート 値上げ 万葉集 万葉の人々 万葉のこころ 犬養孝 わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に わが立ち濡れし 二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 獨り越ゆらむ [日本史アップデート]万葉集 研究進展 具体的に解釈 大津皇子 大伯皇女 齋藤杏花facebook Facebook 中西進 万葉風土学 万葉学者 読売新聞、年明けより値上げ

わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に わが立ち濡れし
二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 獨り越ゆらむ
二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 獨り越ゆらむ
さあて、本年最後の万葉噺はいきなり歌から。
巻二105-106の 大津皇子、ひそかに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時の、大伯皇女の御作歌二首 です。
大伯皇女、随分前にやりましたね。
そうそう、クーデターをしくじって処刑された大津皇子のお姉さんでした。
歌意も背景ももう説明不要でしょう。
この漫画↓↑そうなんですよ、って何がそうなんだか、云ってる私にも分らないんですが、先日の読売新聞夕刊の『日本史アップデート』に載ってたんですよ。
年末の大サービスとして、大胆にも読者限定記事をパクリと行きましょう。
[日本史アップデート]万葉集 研究進展 具体的に解釈2024/12/24
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◇ここに注目!
・奈良時代に編まれた万葉集は近年、考古学や歴史学、文化財科学など関係する学問分野の成果をふまえることで、歌の内容をより具体的に解釈できることが注目されている。
・九州などの防衛にあたった防人(さきもり)の歌を詠んだのは、一般の農民出身の兵士とされてきたが、名前などの分析から、地方豪族の子弟層の防人だったと言われるようになった。
・万葉集20巻中最後の4巻は、最終的な編纂(へんさん)者と言われる大伴家持の歌が日付順に多数収められており、家持が歌の道の継承者としての意識の下に編集し、後の日記文学にもつながる「歌日記」だったとする考えが提示されている。
万葉集は、奈良時代に編まれた現存最古の歌集だ。約4500首の歌が、20巻に収められている。
ひらがな、カタカナがない時代に、漢字の音で日本語の音を表す「万葉仮名」を用いて書かれた。〈富士の高嶺に雪は降りける〉は、原文では〈不尽能高嶺尓雪波零家留〉だ。一度に編纂されたのでなく、複数の歌集が積み重なるように編纂が繰り返されたと考えられている。
こうしたことから、一つ一つの歌をどう読むかや、歌集としての成り立ちについて、様々な議論が重ねられてきた。上野誠・国学院大教授は「平安時代には既に万葉仮名を読むのが難しくなって読み方の検討が始まっており、研究は1000年以上に及ぶ。様々な検討がなされた上で、もう一度江戸時代の説に返ることがあるくらい研究は成熟している」と語る。
◇
近年は、考古学や歴史学、文化財科学など関連する学問分野の進展で、万葉歌をより具体的に解釈できる可能性が注目されている。
奈良文化財研究所は今年、平城京跡(奈良市)で、聖武天皇の皇位継承儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」に関係するとみられる大量の木簡が出土したと発表した。この中に〈生栗七斗〉〈干栗五斗〉と書かれた木簡があった。上野教授は、子を思う親心を山上憶良が詠んだ、〈瓜食(は)めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲(しぬ)はゆ〉の歌を挙げて注目する。「歌だけでは栗の食法まではわからないが、木簡から当時は、生栗と干栗があったことがわかる」
奈良・正倉院に伝わる聖武天皇ゆかりの肘置き「紫地鳳形錦御軾(むらさきじおおとりがたにしきのおんしょく)」は、近年のX線CT画像による分析で、イネ科のマコモ(真薦)とみられる植物の葉や茎を編んで束ね、クッション材にしていることがわかった。
〈薦枕相まきし児(こ)もあらばこそ夜の更くらくも我が惜しみせめ〉(薦の枕で共に寝たあの子がいたら、夜の更けることも惜しみもしようが)など、万葉集には「薦」が現れる歌が多い。上野教授は「マコモがクッション材として天皇にも庶民にも実際に使われていたことがわかり興味深い」と話す。
◇
万葉集には、九州などの防衛のために東国から派遣された防人の歌が、計98首収められている。うち84首は、天平勝宝7年(755年)の防人交代の際に国ごとにまとめて提出されたと記され、詠んだのは一般の農民出身の兵士だと言われてきた。
東城敏毅・ノートルダム清心女子大教授は、防人歌それぞれに記された作者の肩書や名前を分析した結果、詠んだのは郡司の子弟など地方の豪族層だったと結論づけた。東城教授は「一般の農民兵士までが五七五七七で歌を詠んでいたという通説に疑問があった。国府や郡家など律令国家の地方拠点では宴などで歌が詠まれており、そうした場で中央の律令官人に接した人々が防人として赴くにあたって詠んだのだろう」と話す。
防人歌には、父母への思いを詠んだ歌が多い。東城教授は「天皇中心の国造りを目指した律令国家が、儒教的な『孝』の精神を地方にも行き渡らせようとしていた時代背景を物語っている」とみる。
教科書などで万葉集は、天皇や貴族だけでなく、防人や農民まで幅広い階層の人々の歌を収めた歌集だと説明されてきた。ただ近年では、庶民の歌や地方の歌として収められた歌でも、中央と地方の関わりの中で集められたことが重視されている。
上野教授は、「全体的に見れば万葉集は貴族文学だ。ただ、他の歌集に比べれば低い階層の人たちの歌も多い歌集と言える。地理的にも、その後の歌集より広い地域の歌が集められている。律令国家形成期に、日本を『ワンチーム』として表現するための歌集だった」と話している。(清岡央)
◆後の日記文学につながる
大伴家持(718?~785年)は、万葉集の最終的な編纂者と言われ、全体の1割を超える470首余りを詠んだ。うち65首でホトトギスが詠まれ、家持がそれだけ好んだと言われてきた。だが、松田聡・岡山大教授は、家持がホトトギスを二十四節気の立夏と絡めたことに注目する。
〈居り明かしも今宵は飲まむほととぎす明けむ朝(あした)は鳴き渡らむそ〉(今夜は飲み明かそう。明日の朝にはほととぎすが鳴く)
天平20年(748年)4月1日に越中(富山県)国守だった家持が詠んだ歌で、「(今年の)4月2日は立夏にあたる。だから翌朝には鳴くと言ったのだ」と自注がある。松田教授は「4月1日からが夏だとする従来の季節感に、漢籍がもたらしたホトトギスが立夏に鳴くという知識を重ね、暦のずれに着目した新たな表現世界を切り開くのにホトトギスが格好の素材だった」とみる。
20巻中最後の4巻は、家持の歌を中心に、原則日付順に並ぶ。歌を記録した人物が異なる様々な資料を並べただけ、とも言われてきた。だが松田教授は、家持が一貫した考えで編纂したとみて、「巻十六までの様々な主題から重要と考えるものを受け継ぐ形で編み、最新の表現を交え、歌の道の正統な継承者として自分を表現したのだろう。後の日記文学につながる『歌日記』と考えるべきだ」と話す。
◇参考文献 上野誠・鉄野昌弘・村田右富実編『万葉集の基礎知識』(角川選書)、上野誠『万葉集講義』(中公新書)、東城敏毅『万葉集防人歌群の構造』(和泉書院)、松田聡『家持歌日記の研究』(塙書房)、佐竹昭広ほか校注『万葉集一~四 新日本古典文学大系』(岩波書店)
さて齋藤杏花(さいとうあんな)の万葉集は、繰り返してるよう、犬養孝先生の薫陶による所が大きいのですが、先生の没後も着々と新しい研究が進んでるようでして。
一例を挙げますれば、年号令和で一躍注目を集めた中西進博士なんかは、先駆の犬養先生を万葉学者ではなく、万葉風土学の専門家と位置づけてるようです。
うーん、この宝の山、まだまだ掘っても掘っても折りつくせないようですね。
つーことで来年もご期待で、本年の万葉筆収めとします。