曹植 - 兄・魏帝にうとなまれ続けた天才詩人 ~ 後漢を代表する詩人は三曹 (曹操、曹丕、曹植) etc おまけ『れっど&ひひる』

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一雨毎に紅葉が進むおらっちの庭…
これは昨日の、二番紅葉の進み具合を撮った一枚です。
むしろ1号ニシキギを追い越してしまったみたいで、間もなく見頃ってとこでしょう。

さて今日は第三土曜で、おらっとこは草ごみの回収日です。
どうもこのとこいけませんねえ、草ごみの日に限って降りゃあがる、
今日も昨日の雨で水気を含んだ伐採枝を、泥まみれになりながら集配所に運ぶことになります。
その前にBLOG道楽を済ましてしまいましょう。

昨日、下の兄の事を話題にしたら、なんか急に恋しくなりましてね。
いえいえ、お義姉ちゃん其の弐の久仁子さんとこの婿養子だから、疎遠になったって訳でないのですがね。
上の兄夫婦がこの地に戻ってきて家を建てて住みだした為、言ってみれば相対的に遠くなってしまったってとこでしょう。
このように非常にきょうだい仲がいいのが、リアルのこの齋藤杏花(さいとうあんな)が自慢できる事でしょう。
不思議に思われる方もあるやも知れません。
ねえ、あれだけ人の悪口云う私が、身近の者には可愛がってもらってるって。
これは王侯貴族にもない贅沢かもしれません。

今日の『サディズムに花束を!』復刻は、その手の話題です。

曹植 - 兄・魏帝にうとなまれ続けた天才詩人
(2006年)

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ここで、フェムドムからは完全に離れた1稿を挟む。
後期三国志演義で名高いのが、この曹丕曹植の兄弟げんかである。

演義によれば、曹丕は弟・曹植をなきものにしようと様々な難題を吹っかける。
その極めつけが、背中に刀を突きつけ、七歩歩くうちに漢詩をひとつ作ってみろ、の帝命、ご存知『七歩詩』である。

この心底には勿論サディズムは存在する。
が、メインをなすのは近親憎悪であろう。
人というのは、自分により近しいものに嫌悪感を抱くものである。
曹兄弟は同腹である上に、詩という特技まで同じ、激しくいがみ合ったとしても不思議はあるまい。
まあ演技では、悪玉善玉を仕立てる必要があるので植が一方的な被害者に描かれるが、史実では決しておとなしい弟というわけではない。
純然たる喧嘩であったと見るほうが自然だ。

けど、その兄弟がかたや皇帝として栄華を極め、かたや敗残者として『匹夫に等しい』余生を送ることを余技なくされたことは、紛れもない史実だ。
王とは名ばかりで実態は匹夫に等しい… 帝位につけなかったきょうだいたちの生活は本当に悲惨なものであったそうだ。
いや、まだ命があるぶんだけマシか?
同じアジアでも西のほうでは、敗者は消石灰と一緒に麻袋に詰め込まれ海に放りこまれてしまうのである。骨も残さないために。
何百人もいるきょうだいたちのうち、たった一人を残した全員が辿る運命、惨い話だ。

何百人もいるきょうだいと言った。
実際、イランあたりには15歳のとき既に700人以上も子がいた王もあったらしい。
ここで『たった一人』のほう、王なり皇帝なりに話を戻そうか。

このような酒色三昧の生活が身体にいいわけがない。
皇帝(王)などというものは、それが原因で並べて早死である。
後漢の皇帝はほとんど30まで生きられなかったのではなかったろうか?
これが勝者の辿る運命、いやこれでは到底『勝者』とはいえまい。
どうやら支配者もまた、勝者たりえないようである。

いつの時代も、勝者なき戦いは空しい。


とまあ本文にも記載あるよう、佐渡花とすれば異色の部類になる記事です。
先んずる『目指せ!! 平成の女蜀山人!』記事の焼き直しというか。

探してみました。
二記事続けて掲げます。

後漢を代表する詩人は三曹 (曹操、曹丕、曹植)
2005年06月16日

煮豆
兄弟喧嘩と言えば、三国志演義のこの話も有名ですね。
曹操の息子兄弟も、派手な喧嘩をしますよねえ。

魏帝となった曹丕は、同腹の弟・植を疎むようになります。
そして、当世の大詩人の誉れの高い曹植の詩作は全て他人の代作である、という風評に乗じ、これを亡き者にしようとするわけです。

呼びつけて色々難題を吹っかける、が、悉く退ける植。
そして、ラストがこれです。
「七歩進むうちに詩を一首、作ってみせよ」
題は兄弟、兄弟という文字を使ってはいけないという縛りありです。

兄・皇帝は玉座を降り、弟の背に刀を突きつけ歩みだします。
と、植はゆっくりと吟じだしました。


   煮豆持作羹 漉菽以為汁
   萁在釜下然 豆在釜中泣
   本自同根生 相煎何太急



  豆を煮て持って羹を作り
  菽を漉して以って汁と為す
  萁は釜の下に在りて然え
  豆は釜の中に在りて泣く
  本は同根自り生ぜしに
  相煎ること何ぞ太だ急なる


自身も優れた詩人であった曹丕に、この詩がわからぬ訳がありません。
涙を流し行き過ぎを詫び、以降は和解するということになります。
ご存知、曹植『七歩詩』のエピソードでした。

まー、史実とはかなりの温度差があるでしょう。
曹植は決してこんなおとなしい弟でなかった、という傍証ならいくつもありますし。
やはり物語とすれば、漢朝を滅ぼした曹丕を決定的な悪役に仕立てることになる、ってことですか。

以上、今日は悪乗りが過ぎたと思いつつの ミユ の『ラストはおちゃらけなし』でした。

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サイトオーナーの方にも読んでいただけてるようで (三度=みたび)
2005年07月13日

曹丕
いやいや、なんと、というよりも、やはり、「某所ノ赤人」さんは、本『目指せ!! 平成の女蜀山人!』のお客様だったようです。
「某所」にその旨のメッセージがありました。
ひとつ二つ訂正させていただけば。

まず、私、野次馬ではありません。
「某所」に書き込み投稿した以上、少なくても流れるまでは見とく必要とその義務がありますからねえ。

そしてもうひとつ。
「詩」ではありませんね。まあ確かに詩歌という言葉もあるように広い意味では、「詩」範疇に入ることになりますけど、あえて「詩」という言葉を使うことはないでしょう。
少なくても、狂歌、歌ですから、「吟ずる」ではなくて「詠ずる」です。
と、これを枕にして「詩」のほうにいきましょう。





燕歌行 曹丕


  秋風蕭瑟天氣涼 草木搖落露爲霜
  群燕辭歸雁南翔 念君客遊思斷腸
  慊慊思歸戀故郷 君何淹留寄他方
  賎妾煢煢守空房 憂來思君不敢忘
  不覺涙下霑衣裝 援琴鳴絃發清商
  短歌微吟不能長 明月皎皎照我牀
  星漢西流夜未央 牽牛織女遥相望
  爾獨何辜限河梁



(訓読文)

 秋風 蕭瑟として 天気涼しく
 草木 揺落して 露 霜と為る
 群燕 辞し帰り 雁 南へ翊び
 君が客遊を念(おも)えば 思い断腸す
 慊慊として帰らんと思い 故郷を恋わん
 君 何ぞ淹留して他方に寄るや
 賤妾 煢煢として 空房を守り
 憂い来りて君を思い 敢て忘れず
 覚えず 涙下って衣裳を霑すを

 琴を援(ひ)き絃を鳴らして清商を発し
 短歌 微吟すれども 長くすること能わず
 明月 皎皎として 我が牀を照らし
 星漢 西に流れて 夜 未だ央らず
 牽牛織女 遥かに相臨む

 爾独り何の辜ありてか河梁に限らる


あの三国志の曹丕、魏の文帝です。
後漢時代の代表詩人であったことは、前にお話しました。

例によって例のごとく逐一は触れません、ってことでお伝えするのは、これ♀視点、ということです。
なんと、これ、戦地に夫を送り出している妻の詩なのです。

このように創作家である曹丕は、非常に多岐独自性の高い創作活動をしていたと伝えられます。
小説なども手がけていたとか。
当時小説といえば、卑近下賎なもの、という分類でした。
そんなものは女子供に任せといて、男子たるものは詩作をすべし! これが当時の常識だったとか。

性差別にしてメディア差別ですね。
そういわれりゃ、例えばですよ。
囲碁は旦那様のやるもの、将棋は○夫馬○のやるもの、というのがちょっと前の常識だったとか。
理由を述べよ、と問われて明確に答えられる人いる? あはっ!


前にも云いましたが、2005年当時は我ながら、ホント、よく書いてますわ。
このボリュームを日に5-6記事書くなんて、今はとてもできません。