中臣宅守と狭野茅上娘子の贈答歌にみる万葉人のジェンダー観
中臣宅守 狭野茅上娘子 万葉人 ジェンダー観 万葉集 万葉の人々 万葉のこころ 犬養孝 最遅真夏日 遣新羅使人の歌 齋藤杏花facebook Facebook 齋藤杏花 (さいとうあんな) 齋藤杏花 塵泥の 數にもあらぬ われ故に 思ひわぶらむ 妹が悲しき 性差 ジェンダー平等 女性蔑視 男女平等などは絶対にありえない反道徳の妄想 君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも あぢま野に 宿れる君が 歸り來む 時の迎へを 何時とか待たむ 今日もかも 都なりせば 見まく欲り 西の御厩の 外に立てらまし 越前国府
えーっと、この記事を公開してるころには、確か平年の10月下旬なみの気温になってる筈でしたね。
事ある事ネタ晴らししてるよう本BLOGは原則前日起稿、よって今は半袖で汗拭き拭きキーボード叩いてるとこなんですわ。
ん?東京都心では30℃超えたあ?おらっとこはそこまではいってません、さあ張り切って参りましょう。
随分久しぶりに、右コラムの自由欄に貼ってある、犬養(孝)先生の「万葉の人々」(ラジオ講座)に触れてみますかねえ。
これは、実父の高1夏休みに放送されてたという年代もののお宝音源なんですわ。
親の世代全員の万葉バイブルであるだけでなく、次世代である齋藤杏花 (さいとうあんな) にとっても最大の教科書でもあるわけですがね。
ふっと見て保存一番最後の第34回、中臣宅守と狭野茅上娘子を聞き返そうと思い立った訳です。
今日の万葉噺はここからです。
正直言って、私、狭野茅上娘子の事は忘れてましたね。
ああ、あれ!ってのは後からゆっくり噺します。
万葉集巻十五は、2つの歌群からなります。
ひとつは一時続けてお噺しした遣新羅使人の歌で、今ひとつがこの中臣宅守と狭野茅上娘子の恋愛贈答歌です。
背景にふれれば、中臣宅守という宮廷人が下級の女官である狭野茅上娘子と禁断の恋愛をした、と。
それが為に、男の方は越前の国に流されることとなった、そこから63首の贈答歌は始まります。
先ずしょっぱな、女の狭野茅上娘子が詠んだ歌が既報のこれです。
そうなんだよねえ、この有名歌があるというのに、狭野茅上娘子っちゃ誰だったけか?もあったもんじゃありませんわ。
3724は申し上げたよう既出ですので、反転リンクをお読み下さい。
そしてこれに中臣宅守が返した3727が下になります。
塵泥の 數にもあらぬ われ故に 思ひわぶらむ 妹が悲しき
まあねえ…
人によったら、「女が『天の火がないものか』とまで言ってるのに男は『ゴミみたいな存在の自分になんか』と冷めてる。一段愛情が低いのでは?」というとか。
うん、犬養先生と全く同じく、弟子の齋藤杏花 (さいとうあんな)も明確に否定します。
これが性差というものですよ。
ねえ?女が天の火とまでの最大誇張で感情むき出ししてるとこに、男が同程度まで取り乱したら、こりゃぶち壊しですよ。
ここは、男はつらいよってことでぐっと感情抑えて、理屈っぽく請けると。
同じ様にアツくなってたら、無理心中率が5割越してしまいます。
もしもね、ジェンダー平等の建前どおりに、同程度にアツくなってないのは女性蔑視の差別だ!
ってことなら、男女平等などは絶対にありえない反道徳の妄想です。
さて今日はラジオ講座の講義に従い、もう少し歌を拾いましょう。
あぢま野に 宿れる君が 歸り來む 時の迎へを 何時とか待たむ
今日もかも 都なりせば 見まく欲り 西の御厩の 外に立てらまし
今日もかも 都なりせば 見まく欲り 西の御厩の 外に立てらまし
3770の茅上娘子と3776の宅守の返歌です。
その『道の長手』の中途で、互いに相手の居る場所に思いを馳せ歌にしてる、この贈答は男女平等です。
あぢま野っちゃ越前の国府のあったとこ、今の福井県の武生になります。
そうですよね、某国営放送大河ドラマ『光る君へ』でも出てきたんでその折にお噺ししました。
そしてね、ラジオ講座を聞いてみれば、なんと、後に公文書の記録に使われるようになる越前和紙の産地である、との地名説明がなされてたんですわ。
いやはや、これだから古文書の精査ってのはやめられません。
さて時は万葉第四期。
この時代になれば、恋というものも雅の遊びというような傾向をもってくる…
ご存知のとおり、以降の和歌集はすべてこれです。
そんな中、この中臣宅守と狭野茅上娘子の贈答歌は万葉の原点ともいえる、情熱的な恋歌。
そういうところで目立ってくると、講義は結論付けられてました。