庶民の歌心 (マゾヒズムの花札を!) ~ 「島国根性」 これ、私にとっては褒め言葉かも、あはっ!

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つーことで月が明け、今日から10月で御座います。
記事アイコンを見繕うに、どれも南瓜が入ってるんてですよねえ。
ええ冬至でもないのに…そっか!月末のケルトの祭りですね。
ちょっと前まではそんなんなかったもんで、すぐには思い浮かびません。
それにしても季節感は合わない、全くピンと来ませんよ。
はいそれもそのはず、9月が「秋の日は釣瓶落とし」なら10月は「秋の気温も釣瓶落とし」、
月初と月末では10℃も気温差が生じるのが新暦の10月なのであります。

花札ってのは旧暦ですからきちっとリンクせぬものの、10月は紅葉です。
朔でもありますし、今日は『マゾヒズムに花札を!』からお馴染みシカト札の噺を復元するとしましょう。

庶民の歌心

2006年10月18日 19時47分08秒 | 紅葉 - 10月

鹿
さて、花札は10月の種札、俗称シカト札は、

    おく山に 紅葉ふみ分け なく鹿の こゑ聞くときぞ 秋はかなしき

百人一首の猿丸大夫の歌を髣髴させる、と2度ほど記事にしました。
ここで注目しなければならないことは、花札完成当時には当然のこと学校などというものはない、よって今みたいにこの歌を中学高校の授業で教わるというわけではないということです。
なんだ、つまらないことを言うな、とおっしゃるなかれ、ここで考えてみてください。

当時は学校などというものはない、ということは庶民は文字も読めないんですよ。
その字も読めない庶民が、当時ですら古歌であった猿丸の歌を口ずさんでいた、うん、この歌がどれほど広く愛されていたかを示す証拠ではありませんか。
そして、それがビジュアライズされた花札は、庶民をしてその心中歌心を育んできた教材であったとも言えましょう。

実際、往時の名もなき庶民の歌心は素晴らしいものがあります。
うん、幕末は黒船来襲の折の落首です。

  町中に 打ち出てみれば 道具屋の 鎧兜の 高値うれつつ (夷辺赤人)

なんと、なんと、これ、万葉に原典し百人一首に選ばれたあの歌のパロではありませんか!
一大珍事に影響されたのは、幕府やかの吉田松陰らだけではありませんでした。
黒船来襲が松陰にとって一大転機となったのと同様、街の古道具屋にとっても大きなビジネスチャンスになったわけですよねえ。

風が吹けば桶屋が儲かる、ではありません。ちゃんとした経済の原則に基づいたものです。
すなわち、外国との戦にでもなりれば武具に大きな需要が生じる、それが理由で売り手市場になったわけで。

ちなみに作者ペンネームの「夷辺」は、アメリカのこと、そう、ペリーの毛が日本人には赤く見えたので、「赤人」としゃれたんですよ。
当時の日本人で西欧系異人を見たひとなんてざらにはなかったでしょう?
赤鬼のイメージでしょうね、これマジ。

あん?
「赤人」としゃれた?
需給により財サービスの値が決まる?

以上、極々一部の方にしか判らない謎かけをした

と、この言い回し、



「島国根性」 これ、私にとっては褒め言葉かも、あはっ!

を丸写ししました。
投稿日付では後日になるものの実は以前、丸写しだけは思いとどまった「問題」投…稿…

………
………

わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!


と、元になった『目指せ!! 平成の女蜀山人!』稿ですね。
見つかってます。

「島国根性」 これ、私にとっては褒め言葉かも、あはっ!

2005年08月29日



町中に 打ち出てみれば 道具屋の 鎧兜の 高値うれつつ (夷辺赤人)



黒船.
例の黒船来襲の折の落首、第三弾です。
しかもこれ、万葉に原典し百人一首に選ばれたあの歌のパロではありませんか!

と、いうことで何の脈絡もなく、大手日刊紙のコラムです。

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 吉田松陰が下田沖に停泊していたペリー艦隊に身を投じ、米国に密航しようとしたのは、1854年のことだ。国禁を犯したとして幽閉されるが、高杉晋作や伊藤博文ら、時代を動かした若者を松下村塾で教えたのは、この幽閉中のことだった
◆松陰伝を最初に著したのは日本人ではなく、「宝島」などの作品で著名なイギリスの文豪スティーブンスンだったことは、あまり知られていない。この事実に着目した特別展が来月4日まで、松陰の生誕地、山口県萩市の萩博物館で開かれている
◆スティーブンスンの伝記は維新から11年後の1879年に書かれた。会場に足を運んだわけではないが、松陰伝が収録された彼の評伝集「人物と書物に親しむ」の1894年刊行版も展示されている
◆渡英していた松下村塾出身の正木退蔵と晩餐会で知り合い、話題に上った松陰の人生に創作欲をかき立てられたようだ。友人への手紙で「人の生命を生き生きとさせてくれる日本の英雄の話」だと説明しているという
◆正木は後に、東京工業大学の前身の東京職工学校初代校長となるが、原稿の添削もしたそうで、誕生から29歳で刑死するまで、大筋に誤りはない
◆松陰が密航に成功していたら、後世にこれほど名を残したかどうか。スティーブンスンが松陰伝を書くこともなかったに違いない

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さて、歌に戻しましょう。
黒船来襲が松陰にとって一大転機となったのと同様、街の古道具屋にとっても大きなビジネスチャンスになったわけですよねえ。

風が吹けば桶屋が儲かる、ではありません。ちゃんとした経済の原則に基づいたものです。
すなわち、外国との戦にでもなりれば武具に大きな需要が生じる、それが理由で売り手市場になったわけで。

ちなみに作者ペンネームの「夷辺」は、アメリカのこと、そう、ペリーの毛が日本人には赤く見えたので、「赤人」としゃれたんですよ。
当時の日本人で西欧系異人を見たひとなんてざらにはなかったでしょう?
赤鬼のイメージでしょうね、これマジ。

あん?
「赤人」としゃれた?
需給により財サービスの値が決まる?

以上、極々一部の方にしか判らない謎かけをした ミユ の「問題」投稿でした。


赤い人の謎掛け。
そうそう、れっど&ひひるですよ。
あの頃、激しく当てこすってたんでしたわ。
もうかれこれ20年、二昔かあ。
私って、ホント、執念深いんですよ、どこぞの惠さん。
ん?

ドロッ糞婆の戸籍上の本名とのことです、あはっ!

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