小式部内侍 - 中世日本版『詩のボクシング』強者 ~ 投稿復元前に先ずは園まりさんの訃報から
園まり 逢いたくて逢いたくて ピーナッツ 手編みの靴下 錦之介鬼平 掻堀のおけい 中村光輝を誑かす極悪人 パリ五輪 齋藤杏花 (さいとうあんな) 齋藤杏花 スポーツ真理教 五輪真理教 小式部内侍 - 中世日本版『詩のボクシング』強者 サディズムに花束を! 大江山 いく野の 道の遠ければ まだふみもみず 天の橋立 命を掛けた遊び わが国の 梅とはみえね さざなみの 大宮人は いかがいかが 云ふらん 阿部詩 見苦しい 下手糞ひとり入れて麻雀やるようなもの エジプト八百長・山下泰裕
お暑い日々の続くこのとこ、昨日は心なしか涼しかったような気がしました。
さてそんな八朔、また一人、往年の名歌手の訃報が。
園まりさんです。
いえ、幼き日の誰かさんこと私の実父の憧れの人で、まあ愉快なエピソードもあったんです。そちらの方は某twitter改メXにポストしてあるんで、ご覧下さい。
調べてみると、件の代表曲『逢いたくて逢いたくて』はそもそも、さっぱり売れなかったピーナッツの『手編みの靴下』の替詞で、お色気ソングでもなんでもなかった事が分かります。
私が知ってるまりさんは、錦之介鬼平の『掻堀のおけい』ですよ。
往年のアイドル中のアイドルが悪女やった、と。
中村光輝最後の時代の現又五郎を誑かす極悪人。
他シリーズでは処刑の場が描かれるのに流石に元アイドルはそこまでやらず、縄を打たれる場面の「刑場の露と消えた」のナレ死で終わりました。
さて話は嫌でも耳に入ってくるパリ五輪です。
齋藤杏花 (さいとうあんな)は正直意外でしたよ。
21世紀の現代に、スポーツ真理教、五輪真理教の狂信者がああも多く残ってるとはねえ…
何が4年間の努力よ?所詮は遊び、高が遊びではないですか?
血道あげんのはいい加減に…
といったらたちどころに噛み付かれる、過熱振りです。
遊びったって決してちゃらけたもんでない、ってことで『サディズムに花束を!』から下記記事を復元する訳です。
小式部内侍 - 中世日本版『詩のボクシング』強者(2006年)
別ブログのテーマから輸入してみる。
小倉山百人一首こぼれ話の検証だ。
概略かいつまむに。
本稿主役である小式部内侍は、歌人として名高い和泉式部の娘である。
偉大な親を持ってしまった者の悲劇とでもいえばよいか? 小式部の歌は全て母・名高い母が代作してるという流言が飛び交った。
そこは今も昔も変わりないこと、そんな宮中が背景だ。
かかる折中納言定頼なる男性が、丹後の母からの(歌のしるされた)手紙は届いているのか、と彼女をからかったのである。
立ち去ろうとする定頼の袖を引きつかみ、小式部が即詠したとされるのが百人一首に残るこの歌だ。
大江山 いく野の 道の遠ければ まだふみもみず 天の橋立
定頼は顔色を失うわけであるが。
さて、ここからが本ブログにおける論だ。
先程、ねたみそねみからの流言は今も昔も同じと言った。
であるのだが、詩文の応酬、一部に流行する『詩のボクシング』に関しては、今昔大いなる温度差がある。
留意すべきは、当時の歌詠みたる貴族たちにすれば、これが生活の術であったということだ。
同じく百人一首こぼれ話として、平兼盛・壬生忠見の逸話があろう。
『初恋』という題での歌合せに敗れた忠見は失意のうちに死んだとも。
貴族の歌合せは武士の武芸勝負と同じ。即ち、負ければ死…
それを頭に入れたところで、小式部内侍の行動心理は考えねばならぬだろう。
和泉式部を母に持つ小式部のことだ。当然、事後定頼がどうなるかは知っている。
もし相手が悶死するようなことになれば、これは未必の故意による殺人。
それを承知でのかの即詠は、復讐的加虐心の発露以外の何物でもない。
将しく女性型ハードサディズムと言えよう。
その後、中納言定頼なる者がどうなったかは知らぬ。
ただ、碌なことになっていないことは確かだ。なぜならば彼に関しては余り聞くことがないから。
格闘・拳闘。
そもそも発祥時に於いては、どちらかが殺されるまで闘ったという。
詩のボクシングもまた、起源はデスマッチであると伝えられる。
別ブログのテーマ、とありますね。
実は上記、先行する『目指せ!! 平成の女蜀山人!』に下敷きとなる投稿がありまして。
そっちの方が話を続けやすいので、大間違いのある恥ずかしいのを、そのまま披露します。
命を掛けた遊び2005年05月14日
>122 名前: ミユ ◆MIYU/7A.SM [鴎外『安部一族』読んでるかな?あはっ!] 投稿日: 05/02/17 17:49:16 ID:n9QqIA/W
>>>119
>
> わが板の ネタとは見えね のきなみの 運営人(びと)は いかが云ふらん
うーん、確かに安部とも書きますが、鴎外の小説は『阿部一族』でしたな。
冒頭まず訂正します。
いまはdat落ちしてしまった某巨大掲示板群のスレで、番○グループのことに触れたのものなんですけど、今日は元歌の方を詳述してみようと思います。
(本当に『○頭グループ』でネット検索かけると軒並みウチがでてくるね、あはっ!)
安部氏とは奥州藤原氏より前の時代に北方に勢力を構えていた豪族です。
奥州藤原氏もその直系子孫、『蒼き蝦夷の血』で読みました。
貞任、宗任ら兄弟の代に滅ぼされることになるのですが、これは宗任(だったと思う、異説もあり定かでない)が捕虜として都に引きたてられた折の逸話です(これもそうだったと思う、程度)。
とある一人の貴族が、梅の花を見せて、これが何か知ってるか? と問いました。
夷、山猿、野蛮人、と馬鹿にしたわけですね。
と、間髪を入れず返ってきたのがこれ。
わが国の 梅とはみえね さざなみの
大宮人は いかがいかが 云ふらん
(呼ぶらん、とも)
これは梅です。春に先駆けて咲くといわれますね、我々雪深きところに住むものも、この花の開花に遅い春の訪れを感じて楽しんでるものです。
都のかたがたはさぞや雅な言い方をするのでしょう、なんというんですか、教えてください?
さあさあ、まさか歌が返ってくるとは思ってもみなかった当の貴族氏、返歌を用意してるわけがない!
そうです、歌で聞かれたら歌で答える、これが掟。
どうすることもできない貴族氏は恥も外聞もなく、こそこそ退散しました。
まわしが解けてしまった力士か、はたまたマスク剥がれた覆面プロレスラーか?
もう、この貴族は再起不能です。飯の食い上げ、死活問題。
なせなら彼らは雅なことをするのが仕事、この手の遊びは彼らにとっては遊びであって遊びでないのです。
文学的に言い換えれば、かつて日本には命を掛けた遊びをしていた人たちがいた、といえるでしょう。
がらっと話が変わって、ソルトレークシティ冬季五輪の折のこと。
ショートトラックスケートの判定を巡るトラブルが続出しました。
テレビ解説員は怒る、こんな曖昧な判定競技など廃止してしまえ、さもなくば懸命に練習してきた選手が浮かばれない、と。
私はこの意見には与しません。
もとより同じスケートでもフィギュアの方のように、はじめっから答えが決まっていたなどというのは論外です。
ただその場の判定の類ならば、あるときは敵が得しても、また別のときは自分が得する、長い目で見れば同じ、それくらい野放図な気持になれませんか?
別にいいじゃないですか、たかがオリンピック、たかが遊びです。
もう、スポ根なんかは流行りませんよ。
死ぬほど厳しい練習をしてきたすべてを、その場の運不運にかける、それを積極的に楽しむくらいの気構えでなけりゃ。
述べたように、かつての日本では『命を掛けた遊び』が行われてきました。
ただでさえ狭い島国の農耕民族です。
時には自分の命をコマに変えて丁半博打に興ずる、これくらいのことをしなけりゃ息が詰まってしまいます。
だから~
鷗外の阿部一族はまるっきり別の話だっての!
のちに青空文庫で読んで知って赤面した次第ですが、今はもうお愛嬌、枕のための2chよりの転記で趣旨が変わるわけでもないので、そのまま披露します。
そうなんです、お察しのとおり。
過日の阿部詩見苦しいを請けてるんですよ。
柔道の奴らっちゃ毎回そうなんですよ。
誤審だっていって畳を降りなかったのは時系列的には詩より前だったか、毎日毎日同じ文句を繰り返すうち、とうとう審判への批判がニッポン一般大衆の世論ということになってしまいました。
将に見苦しいの一言ですよ。
いい大人がさあ、どうしてそこまでアツくなれるものか。
判定にケチ付けるようになったら、ホント、悪いことはいわない、そこできっぱり観戦をやめる事です。
自分が何やってるか第三者的に見直してみるといいです。
これはよく言うことだから既にどっかでいったかもしれませんが。
審判の技量が低いってんなら、下手糞ひとり入れて麻雀やるようなものですよ、
あるときは敵が浮いても、また別のときは自分が浮く、長い目で見れば同じ、
ああ、上記でも言ってますね。
そうそう。柔道ではかつて審判員の技量が低かったために、日本が大儲けしたことがありました。
エジプト八百長・山下泰裕…
日本が浮いた時は誰も文句いいません、あはっ!