本稿は6日稿の元となった『目指せ!! 平成の女蜀山人!』「和魂洋才」の復元なんですが、先ずは昨日の那須町夫婦遺体事件噺の続きから入るとしましょう
目指せ!! 平成の女蜀山人! 和魂洋才 前田亮 江川紹子 コタツ記事 関根誠端 姜光紀 若山耀人 佐々木光 平山綾拳 那須町夫婦遺体事件 軍師官兵衛 敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花 本居宣長 齋藤杏花 (さいとうあんな) 齋藤杏花 橋下徹って人は、その後スゲー羽振りよくなったんですよね? あの折は心底腹のたった 齋藤杏花 (さいとうあんな) です 高砂の 尾上のさくら 咲きにけり 外山のかすみ たたずもあらなん
つーことで御座いまして、タネを明かせば昨日2発目の記事投稿時点では既に、写真左の前田亮容疑者も逮捕されてました。
宝島夫婦を不動産内覧の為との名目で、凶行の行われた場所に引っ張りだしたとされる不動産業者です。
改めて4月に発覚した件の事件、何度かの情報遮断を経て漸く、役者が全て舞台に上がりました。
後は、当局の事務手続きだけ、そうですよ、繰り返しますけどこれほど中味が丸見えの事件もまたありません。
ねえ?6人で共謀して、夫妻だまし討ちにして撲殺し足がつかないよう焼き捨てた、と。
それ以外どういう可能性があるのです?
強いて言うなら…
虫の息でまだ生きてる者を焼き捨てた、考えたくもありませんが言わずもがな、更に一段タチが悪いです。
ネット巷間つらつら眺めるに、流石にまだ遺棄事件の容疑者段階なぞと江川紹子ばりの建前論並べるのはいませんね。
そうだよ。ふん、
江川なぞ、当局が余りにも時間掛けるもんで、果たして(最初にあがった)平山が本当の事を言ってるのかなんて、疑ってたりして。
どうもいたしまして、将に本当の事しかいってませんでした。
再度、ふふん、こりゃ奴とは係わり合いのそれは濃い、コタツ記事好みの事件ですね。
それに、オウムの時同様に、今からシロートが、刑罰決めちまっていいわ、
関根誠端、姜光紀、若山耀人 → 死刑
佐々木光、平山綾拳、前田亮→ 無期
ここらでどうでしょうねえ?
宝島夫妻の無念と苦痛を考えれば、これくらいせねば浮かばれないというものです。
そうなると、若山容疑者の出てた軍師官兵衛なんですよ。
ふん、これが多いですが、某国営放送は配信停止にはしたくないようですね。
作品には罪はないって視聴者の声を請けて、出演者に不祥事があっても、今後は配信停止にはしないなどと。
だから~
罪の有無などと遠山の金さんごっこやってるわけじゃない、不特定多数に向け公共のメディア使って配信する事の是非をいってるのです。
話によれば若山逮捕の折、元俳優という肩書を付けることさえ渋ったとか。
あからさまですね。
要は稼げるものを失いたくないってだけで、他はなにもない訳です。
マクドナルド柏店も同じ、世の中、ここまで気持ちが荒んでしまったわけです。
敷島のやまと心など…
ということで、お待たせ、長い長い枕はここまでで、ようやっと本文である長い長い復元稿に入れるという次第です。
和魂洋才2005年05月10日
敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花
本居宣長の歌ですね。
そういえば私、どこぞで宣長みたいだと言われたことがありまして。
さてさて、この項の続きは日をあらためまして、お客様の書き込みを頂いた掲示板の方にでも。
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閉鎖後の翌年1/26
えーっと、『続き』は5月12日(木)21時43分 に投稿してあります。
現在は2ページ目になってますか、遅ればせながらご案内を。
さて、我らが大家さんであるライブドアグループはとんでもないことになってしまいましたねえ。
散々遊ばしてもらった、否、今現在も遊ばしてもらってますか、Blogの運営会社です。
私にも影響あり、ってことで、また過去投稿に加筆していこうと思い立ったわけです。
今度は正攻法でいきましょうか。手許の全国紙にちょうどよい記事がありました。
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ライブドア事件を語る お茶の水女子大学教授 藤原正彦氏
情緒壊した市場主義原理 競争は規制下で
-堀江容疑者の逮捕を間いてどう思ったか。
「まず、検察はよくやったと思った。同時に困ったことになった、とも。彼が『法律違反をした』という面にばかり焦点が当たり、事件の背後にある市場原理主義の問題が隠されてしまう恐れがあるからだ」
-市場主義の問題点はどこにあるのか。
「市場原理主義とは、規制をなくして人々に競争を強いるもので、それ自体が問題。人の心は金で買える、などと言っていた堀江容疑者は捕まったものの、似たようなIT長者はまだまだいるだろう」
「例えばボクシングからルールがなくなったら、試合はすべてKOで決まる。規制は本来、弱者を守るためにある。市場原理主義は人々を勝者と敗者に容赦なく分けてしまうのだ」
一だが、これまで多くの人々、とりわけ若者は「ホリエモン」を支持してきたようにみえる。
「彼が若き改革の旗手に見えたのだろう。多くの国民は、形勢をみて勝ち馬に乗るのが賢いと思っているから。ところが、実際には、勝ち負けは五分五分の確率ではなく、1割の勝者に対して9割が敗者になってしまう。そこに大きな錯覚がある。そして市場主義が進んだ米国では、人口の1%が国富の4割以上を得ているという統計もある」
-市場主義を米国から導入したことに問題があると指摘しているが。
「1970年代に米国で暮らしていたが、人種のるつぼである米国では、言語も習慣もそれぞれ違うから、共有できるものは〈論理〉しかない。日本から行ってしばらくはそれが心地よかったが、やがて考えが変わった。論理でいえば会社は株主のもの。そこで働く人の気持ちなどどうでもよく、いくら従業員をリストラしても問題ないのかもしれない」
「その意味では、堀江容疑者も論理の人なのだろう。だがそれでは人々は幸せになれない。各界のリーダーも多くは米国に留学しており、その論理をそのまま受け入れてしまっているところに問題がある」
-金銭至上主義がまかりとおる現状に、何ができるか。
「非常に難しい。日本は米国のほぼ植民地化し、何も自由にできない状況だ。例えば2003年度、日本は対米黒字の3,4倍の額に相当する米国債を買ったとされる。日本のもうけで、米国の赤字を補填しているようなものだ。しかも、その国債は米国のコントロール下にあって自由に売れない」
「そのために、国内ではゼロ金利が続いている。日米の金利が近づくと、為替リスクを考えて、だれも米国債を買わなくなるから。米国の赤字を埋めているのは日本と、ここ1,2年は中国。この2か国に支えられているものの、米国の市場システムは、すでに破たんしているともいえる」
-藤原さんの持論である日本特有の精神文化を復活するには?
「非常に難しい。日本人はなぜ、これほどあっけなくアメリカ式の市場原理主義に毒
されたのか。最大の理由は、祖国に対する誇りと自信、国柄を失ったからだろう。日本の過去や文化、伝統を全否定する教育が行われてきた」
「明治期のすさまじいまでの経済成長と工業化、戦後の焼け野原からの復興、さらにバブル経済の崩壊後も世界第二の経済大国であり続ける経済力。これば日本の国柄によるものだ。かつて日本の初等中等教育は世界一の水準であり、誠実、忍耐、工夫、努力といった日本人の美質に基つく日本式の経営がなされてきた。そうした国柄を今、日本人は捨て始めている」
-今回の事件を、教訓とするには?
「市場原理主義が、経済学の中でとどまっていれば、まだいい。失敗しようと、成功しようと、所得が2倍になるか半分になるかという結果を生むだけで、民族は滅びない。ところが市場原理主義は、人間の価値基準、行動基準まで書き換える。それが恐ろしい」
「日本人は歴史上、金銭至上主義から最も遠い国だった。例えば、フランシスコ・ザビエルが1549年に来日して最初に驚いたのは、貧しい武士が金持ちの町人に尊敬されていたこと。武士は権力と教養は身につけても、金はもたなかった。それでも尊敬されたのは、高邁な武生道精神、非常に高い行動墓準のもとに生きていたから」
-日本には市場原理主義は合わないのか。
「市場原理主義の広がりによって、日本は世界でも特異な国柄を捨てつつある。成果主義に追いまくられ、雇用が安定せず、人間を幸福にしない社会にしている。こんな血も涙もない世界なのだから、子供を産むのをやめようと考え、出生率が下がるのは当然だ」
「今や全雇用者の3分の1が非正社員。短期の非正社員は社会保険も払わなくてもいいから、フリーターやニートが増える。子供は勉強していい会社に入っていい生活をしようとする動機付けがなくなる。市場原理主義は短期的にはよくても、長い目で見たら日本の経済を駄目にしている。日本人の大半は普通の人、中流でなければいけない」
-ライブドアを支援してきた経済学者やエコノミストに罪はないのか。
「彼らの功罪を検証すべきだろう。競争はいい。しかし、自由競争は良くない。規制下で競争をすべきだ。デリバティブ(金融派生商品)にしても先物取引にしても、規制すべきではないか。かつての大店法も復活させて、規制を設けた上で商売をすべきではないか」
「市場原理主義によって、情緒という日本人の行動基準、特に弱者に配慮する”側隠の情”が根こそぎにやられた。劣る者への同情、共感は昭和初期から落ちてきている。だから戦争をした」
-側隠の情を取り戻すには?
「起死回生のホームランはない。教育をきちんと立て直す外にない。政治改革しても経済改革しても、腐った日本人の魂は元には戻らない。一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数といっている。国語を通して、自ら本に手を伸ばす子を育てる」
「活字文化の復興、読書文化の復興以外にない。今は先生も親も側隠の情も卑怯とかも教えるすべがない。読書して叙情的な詩を読むとか、古典などの中から『もののあはれ』を感じ取るしかない。時間はものすごくかかるが、それしかない」
思想レベルでの総括必要
「難しいですね……」。2時間に及ぶ取材のさなか、何度となくつぶやくのを聞いた。仮に今回の事件の全容が解明されても、日本が抱える問題が解決するわけではない。藤原さんは、そう考えているからだ。
その視点に立てば、問題の根はとてつもなく深い。堀江容疑者を生み出した市場原理主義の流れは、単に経済だけではなく、日本の文化の美点までも損なっている…。今回の事件を総括するには思想的なレベルでの営みも必要になってくるはずだ。そこで藤原さんの投げかける議論は大きな意味をもってくるに違いない。(文化部・時田英之)
武士道 - 鎌倉武士の戦闘の現場におけるフェアプレー精神から生まれ、江戸時代に慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気などを盛り込んだ倫理体系として洗練された。新渡戸稲造が1899年(明治32年)に英文で『武士道』を発表し、日本人の美徳として世界に紹介した。
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将に、我が意を得たりです。
私が、この記事その他再三にわたって繰り返してきたことですよ。
いやいや、私、教授の信者というわけではありません。
事実、新田次郎を父に持つ藤原教授という名前は存じてましたが、『日本特有の精神文化の持論』までは存じてませんでしたから。
もうひとつ、もうひとつ。
昨夏の『リニューアル』の折、私、「日本人のこころだけは忘れないでください」と開発日誌にTBしてますから。
さてさて、話を続けますか。
敷島の 大和心…
百人一首のこの歌を取り上げてませんでしたね。
73番・権中納言匡房こと大江匡房(オオエノマサフサ)の歌、後拾遺和歌集<春上・一二○>に出典します。
高砂の 尾上のさくら 咲きにけり 外山のかすみ たたずもあらなん
詞書に、「内のおほいまうち君の家にて人々酒たうべて歌よみ侍りけるに遙に山の桜を望むといふ心をよめる」とあります。
はるかかなたの高い山の峰の桜が咲いたことだ。人里近い山の霞よ、どうか立たないでほしい、霞を擬人化して、遠山の桜を十分に観賞させてほしいと訴えているわけですね。
酒宴の席での歌、ってことで宣長の歌とは詠まれた状況は大いに異なりますが、心情的バックボーンは共通のものがある、と情緒的には感じ取れます。
ここで、また新聞の切抜きを。
同じ全国紙、同じ日の夕刊からです。
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東京散歩道 足元に百人一首 用賀プロムナード
写真・岡田元章 文・龍野晋一郎
東急田園都市線用賀北口から環状8号沿いの砧公園まで、約1キロ続く遊歩道「用賀プロムナード」。淡路瓦が敷き詰められた道なので別名「いらかみち」とも呼ぶ。路面に、百人一首が刻まれていた。
遊歩道に入ってすぐの一首目は天智天皇の歌。そこから5~10米おきに、柿本人麻呂や小野小町などなじみ深い歌が次々と足元に現れ、ひと息ついたベンチの背もたれにまで、歌が刻まれていた。路面には波形模様もあしらわれ、気分を和歌の世界へいざなう。
山茶花が咲いているそぱに、下校途中の子ともだちがいた。聞けば、百人一首が大好きな近くの小学校の5年生の児童たち。「私たちが書いたんですよ」
指さしたのは、73番の権中納言匡房の歌。クラス全員が1人1文字を担当した文字は大小様々で味わい深い。無邪気な文字に、歌人もほほ笑んでいるに違いない。
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…よかった~
匡房のこころは、宣長へと、そして現代の小学生へと、ちゃんと引き継がれているのですね。
ええ、私も「語り部」をやってきましたから。その舞台とさせてもらったのはライブドアさん。
日本のこころを思い出してください。
ライブドアという会社ではない、ライブドアグループという組織ではない、そこに携わっている一人一人の『人』に訴えかけます。
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同じく翌々年9/5
かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂 (吉田松陰)
さてさて、この稿をごらんの皆様。
随分とまたお久しぶりでございます。
何故に、目指せ!! 平成の女蜀山人!、未だやっておりますデス。
でもまあ、この加筆で最後かもしれないなあ…
って、おっと、おっと! おいおいお話しするとして、歌を見ましょう。
いつぞや触れた新渡戸稲造。
彼が著書中で『武士道は尚生くる乎』と紹介してるものです。
「武士道は一つの無意識的なる且つ抵抗し難き力として、国民及び個人を動かしてきた。新日本の最も輝かしき先駆者の一人たる吉田松陰が刑に就くの前夜詠じたる次の歌は日本民族の偽らざる告白であった。…形式をこそ備へざれ、武士道は我が国の活動精神であったし、又現にそうである」
うーん、貧しくても豊かな町人たちから尊敬されていた…
そこらのニュアンスですね。
武士道は尚生くる乎、うん、士という人たちがいますよね。
サムライ業。ほら、○○士(一部は『師』)って職業のことです。
つらつら、巷間を見渡すに。
おお、サムライ! と唸らされる方もあれば、武士の風上にもおけないと心中唾棄するような輩もあり。
して、今日お話しするH生という人物は、残念ながら後者カテゴリに属します。
H生…
いやいや、別に怖くて実名を伏せてるわけじゃないですよ。
だから、言いますよ。いちどだけね。
橋下 徹 (ハシモト トオル)
1969年6月29日生、大阪弁護士会所属の弁護士ということになるのですか?
いや正直よく知りません。二度と書くつもりのない固有名詞の詳細など。
そうです。書くも汚らわしい名前なものだから、H生と表記するのです。
そして、また、思うところを書くためには、本Blog強制削除も辞さずの私のことですので、先ほど「この加筆で最後かもしれないなあ…」と申し上げたのです。
えー、言っちゃいましょう。
このH生、武士はおろか、「電波芸者」と呼ぶもおこがましい「電波娼婦」ですね。
ふんっ、電波に乗せて己の身と誇りをたたき売し、食い扶持にしている下郎。
なんですか? 例の光母子殺害事件弁護団の懲戒請求をするように焚き付けたまくったとか。
先ずは、H生曰くの「弁護団は説明責任がある」云々です。
説明責任などあろうはずもない。なんとならば、「説明してはいけない」という責任があるんだから。
ああ、守秘義務ね。
と、ここでH生信奉者各位から反論がくる。
「制度云々でなくて人として」
と。
そうですよ~
「人として」絶対に秘密にしなければいけないんですよ。
職業専門家たる己を信じ、言いにくいことまで喋ってくれた被告人の信頼を、絶対に裏切ってはなりません。
きちがいと罵られようが、カルトと吹聴されようが、「やむにやまれぬ 大和魂」。
そこがサムライでございます。
それをですよ。
このH生ときた日には正反対のことを焚き付けて回ってる。
これ一事だけとっても、人間失格なのでありますけど、もう少し続けましょうか。
H生も一応は弁護士登録してるとのことですから、刑事裁判のなんたるかくらいは知っているはずです。
法曹三者が、それぞれ独立独歩の立場から緊張ある信頼関係で戦いあい、被告人の量刑を決定する場であると。
部外者が口を挟んではいけない、挟めるものであってはならない…
ことに、弁護人というのは、独立した自由職業人がやることですから、より独立性が保障されているものです。
弁護士バッチそうでしょう?
何人たりとも介入してはならないですよ。
さもなくば、弁護士という職業自体が傀儡になってしまう。ねえ? 正規の法廷活動で懲戒を気にしなければならないなんてことになるなら。
ことに、凶悪犯罪の被告人の弁護はつらいもの、それを知りながらH生はです。
某所で、いつぞやの福島県立医科大学忘年会にふれた折、引いた昔話がありました。
同じ米を踏みにじったのに、お百姓さんだけが足が動かなくなり、和尚さんは何ともならなかった…
米作りの苦労を知っている者が踏みにじったから、天罰があたったのです。
もうここまでいえば、H生ごときのことは申しますまい。
そうです。
光母子殺害事件弁護団は、H生なる電波娼婦に腹をたてたのではない。
キャツの肩書きに対して、損害賠償請求をしたのです。
とやかく言われている光母子殺害事件弁護団は存外まともであった、少なくても気はふれてなかったという結論でむすぶことにしましょう。
加筆部分の最後の段は、既出、橋下徹って人は、その後スゲー羽振りよくなったんですよね? あの折は心底腹のたった 齋藤杏花 (さいとうあんな) ですのタイトルで、2年前に復元してます。
思えば私が最初に手がけた『目指せ!! 平成の女蜀山人!』は半年足らずで閉鎖しちまったのですが、その後折りに触れては、このようにです。
誰に読ませるとなるちまちま加筆をしだしましてね。
いわば、その加筆が『いつまでこんな事。。。』になっていった訳です。
つーことで御座いまして本稿も、元にはない復元稿ということになりますデス。。。