『光る君へ』は齋藤杏花(さいとうあんな)史上最低最悪の大河ドラマです。ながら視程度と言ってる人もいますがそれすら耐えられず、居眠りしてしまった第十三回「進むべき道」でした

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ふう。
今日のみ晴れといってた天気予報が、また曇りマークに変わってしまいましたねえ。
弱った…
何があろうと今日洗濯機を回さねばおっつかない事態になっておりますです。
お天気には恵まれずあちんだかさみんだか分からない気温の状態の中、庭の植物は次々に変化を見せてきてます。
ご紹介のハナズオウ
庭の反対方向に一本ずつあるんでしたよね。
うん、台所の直ぐ脇のが気付けば画像程度に。
もう一本は昨秋、伸びすぎたのを大幅に伐採してしまったので今年は準備中なんですが、それでも残した枝にちらほら紫の粒が見え出しました。

噺は某国営放送大河ドラマなんです。
まあ、視てるのは視てるんですが…
何せ、かの『光る君へ』、タイトルの記したとおりですので、そのままにしてきました。
物心付いたから今まで欠かさず視てきたんだからここで空くのはって、ホント、義務感だけで視てきてますです。
何せタイトルすら失念して本稿、途中まで『光る君"に"』なぞと書いてたくらいで。
そもそも大河ドラマってなに?
ひとりの人物の生涯を1年かけて滔滔と流れる大河の如く、歴史上の出来事を横糸に織り込んでつむぎ上げるドラマですよね。
そして本年の主人公は紫式部でした。

けど、どうしても紫式部の生涯が描かれてるとは思えないんですよ。架空の人物まひろの平安絵巻で、どうみてもこのまひろが紫式部とは思えません。
いや、違った事云ったかな?描いてるのが生涯なのか、はたまた源氏物語の裏話なのか、作者の大石さんにも絞りきれてない、と断じるしかない、と言った方がよかったか。
そこに加えて、主要登場人物演じてる役者が顔なじみで、言ってみれば大石ファミリーのドラマだってことも手伝って、ひたすら、お芝居から離れた秘話トークばかりが先走る学芸会レベルの演劇が繰り広げられてる次第。
冗談じゃない、あと9ヶ月、民放の用語なら3クール続くんですよ。
なーんか、ゲンナリですわ。

でやめてしまったら、私もまた余りにも芸がない、なんとか続けようと無理矢理ネタを拾うに。
大奥の阿部正弘ふんするとこの明子女王が懐妊しましたね。
うん、まだこの子じゃない、御子左家の祖・長家は。
そう、御子左は同じ道長の子孫でも明子の系統なんですよ。
俊成の高祖母が源明子になります。
では定家にとって?名称があるのは高祖父母までで、それ以前はない、従って単に5代前のご先祖という事になります。

藤原定家「明月記」。第2回はご紹介済でしたね。
では、もののついでに第一回を。

種をあかせばこういうこと

2005年06月15日


某全国紙で、百人一首選者でもある、大歌人・藤原定家に関する連載が始まりました。
先ず、それをご紹介しましょう。

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日記をのぞく 藤原定家「明月記」① 和歌の道に生きる気位

明月記 「藤原定家の『明月記』が、日本人が書いた日記の中で、最も重要なものの一つであることは疑いをいれない」(ドナルド・キーン著、金関寿夫訳『百代の過客日記にみる日本人』=朝日選書)
 『新古今和歌集』の時代を代表する歌人が半世紀以上も書き続けた日記。その中で最も知られているのは、治承四年(一一八○年)九月のくだりだろう。
 「世上乱逆追討耳に満つといえども、これを注せず。紅旗征戎わが事にあらず」
 八月、源頼朝が挙兵、平維盛が追討使となった。時代は大きく変わろうとしていた。しかし、数え年十九歳の定家に、その認識はない。この部分を後年の加筆とする説もあるが、唐詩を援用した高らかな宣言には、和歌の道に生きようとする貴族青年の気位が感じられる。
 作家の堀田善衛は第二次大戦中にこの一節を読んだという。「定家のこの一言は、当時の文学青年たちにとって胸に痛いほどであった」(『定家明月 私抄』=新潮社)
 治承年間はまだ青春の時だった。
 治承四年二月十四日。「天晴る。明月片雲無し。庭梅盛んに開く。芬芳四散す。 家中人無く、一身徘徊す。夜深く、寝所に帰る。燈、髣髴としてなお寝に付くの心無し。さらに南の方に出で、梅花を見るの間、たちまち炎上の由を聞く」
 悩ましい夜、梅の香りに誘われ、都大路をさまよう。火は父・俊成の家に及び、定家も焼け出されるが、さほど気にしていない。
 九月十五日。「夜に入り、明月蒼然。故郷寂として車馬の声を聞かず。歩み縦容として六条院の辺りに遊ぶ。夜ようやく半ばならんとす」。後世の人が定家の日記を『明月記』と題したのは、こうした名文のゆえに違いない。
 翌五年一月三日、父に連れられて、式子内親王に目通りする。定家の歌才が認められたのだろう。日記には、内親王の薫物について「馨香芬馥たり」と記している。非常なほどの芳香に酔った様子だ。青年は初めて会った年上の高貴な女性に、ただならぬ思いを抱いたのかもしれない。交遊は内親王の死まで続く。
 伝説では、定家は死後、テイカカズラとなって内親王の墓にまつわりつく。金春禅竹の謡曲『定家』は、この伝説に基づく名作だ。

▼『明月記』歌人・藤原定家(一一六二-一二四一年)の日記。現存するのは一一八○年から一二三五年まで。歌聖の素顔を知るだけでなく、平安末期から鎌倉初期までの歴史、民俗資料としても貴重。原文は漢文で、引用は今川女雄『訓読明月記』(阿出書房新社)などを参考に読み下し、一部の漢字を平仮名に改めた。


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ね、前項と関係大有りでしょう?
つーか、ねたばらしすれば、こっちの方が先にありき、だったんですが。

馨香芬馥たり…芳香に酔いしれ、そして、虜になった…
これを『匂いフェチ』というべきか、そもそも『匂いフェチ』なるものが果たして存在するのか、正直わかりません。
ただ、限りなく妖艶にして淫靡であることには異論はすくないでしょう。

さてさて、その定家氏。
母親が死んだときに、



   玉ゆらの 露も涙も とどまらず 亡き人恋ふる 宿の秋風

                  新古今和歌集<哀傷・七八八>



と、詠んだあたりからしても、年上好み、ひょっとしたら『マゾコン』だったのかもしれませんね。

以上、『一条ゆかり漫画的』倒錯性愛にことを結び付けよう試みる ミユ でした。

出てきた。本文に続く閉鎖後加筆は翌年12/10。
『サディズムに花束を!』の一条ゆかり~は2006年08月01日でした。

ふう、ここまでやっておけば何とか体裁は保てたかな?

以上、19年近く前と同じ落とし文を使おうと試みる齋藤杏花(さいとうあんな)の、連日の『目指せ!! 平成の女蜀山人!』復刻でした。

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