第九回「遠くの国」も絶好調でした、滅茶苦茶モード大河『光る君へ』。お涙ちょちょ切れなきゃならないのに、笑えて、笑えて。あ、苦笑でなく、爆笑です

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朝晩は冷えるものの昼間はバカ陽気の、このとこのおらほうです。
そうなんだ、今日は二十四節気の一つ、啓蟄でしたわねえ。
そうなると愈愈『納言の書きしくさめ』、へっくし、へっしくで極めてイロケのない齋藤杏花 (さいとうあんな)となる、ユーツな誕生日前です。
今年は今のとこ幸いにして、鼻づまりで目が覚めることはないのですが。

今週も清少納言は休場でしたね。
あ、某国営放送大河ドラマ『光る君へ』の噺です。
第九回「遠くの国」は物語序盤のクライマックスの回で、ハンカチ用意して鑑賞せねばならないのに、人一倍涙腺のもろい齋藤杏花 (さいとうあんな)がどうしても泣けない、でてくるのはひたすらバカ笑いばかりで。
そうですよ、余りにもご都合主義に過ぎる。

先ずは立ち上がりの、まひろが共犯の疑いで逮捕された場面です。
紫式部容疑者(16)が検非違使庁に連行されてきた時に、道長が裏金渡しにきてなかったらどうなったでしょう?
天下の国営一年もの放送が、3月初で終劇してしまいますわ。
ま、一々いってたら限がありませんので、ずばり、最大の疑問点に持って行ってしまいましょう。

散楽一座は何で殺されたん?

某SNSでも色んな人が色んな事言ってますが、どれもみんな尤もであり、またどれもみな完全にはしっくり来ないのです。
例えば前週の道兼の傷。
あれも不自然不完全燃焼でしたが、果たせるかな、今週の放送でタネ明かしがありました。
けど一座は皆殺しにされたのですが、今後ネタをばらそうにもばらす人物がないのです。
と、どこぞの政党みたくに分からぬ分からぬばかりで終わったら鼎の軽重を問われかねませんので、分かることだけを記しましょう。

一座はやっぱ、鞭打ちで殺されたんだと思うんですよ。
鳥辺"野"っていうけど、あら、どっちかというと森だな。
そうなると、直後行かないとバラバラになった白骨が散らばってるだけと思われます。
ねえ、鳥獣虫菌が綺麗に片付けてくれますよ。
ま、この点は撮影の制約で仕方ないでしょう。
それがために直秀たちの死骸は顔が判別できるまでの保存状態でした。
でね、よくみると顔やら上半身やらに打撲跡がありました。
打ち殺されたんですね、刺されたんなら血の海のはずですし。

鞭くらいで死ぬか?っていってる人は、怪しげな女性にひっぱたかれるあれしか頭にない証拠です。
プレー用のバラ鞭は音ばかり激しくてさっぱり痛くない、本物の鞭、この場合は笞でしょうけど、これは棍棒とどっちがいいか選ばされるってくらいの代物ですので、十分に落命も考えられるとこです。
見つけた後の二人で素手で墓穴掘って埋葬したってのも、超越人力…
おっと、ここらで切り上げておきましょう。

でね、先ほど言いかけた鳥辺野(の違和感)なんですよ。
あれじゃあチベットの鳥葬…どうにもイメージの違う場所のような気がしてならないのです。
んまあ、鳥辺野の煙って成句が頭にこびりついてるせいもあるのでしょう。
つまり本物の鳥辺野っちゃ、焼き場みたいなとこだったんじゃないかって。

まあ鳥辺野の煙は鎌倉時代の言葉にせよ、火葬は奈良時代から行われてました。
事実、道長も件の鳥辺野で荼毘に付されたとのことですし。
当時の鳥辺野が単なる野ざらしの為の場だったのか?それとも焼き場機能を持ってたのか?
正直、これまた分からないとこですが、ひとつ、和歌の世界では『煙くらべ』は火葬を連想されるということで、禁句中の禁句だったことは確かです。
そうだなあ。大昔に『目指せ!! 平成の女蜀山人!』に書いたことがあるんですわん。
お慰みに披露しちゃいましょう。

潜入観念で評価しちゃダメ

2005年06月26日


大歌人・藤原定家。
その業績からして、温厚な貴公子をイメージする方も多いのではないでしょうか?

先ずは、『日記をのぞく』第二回目をお読みください。

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日記をのぞく  藤原定家「明月記」②   昇進に焦り悪態連ねる

定家
 『明月記』は治承四年(一一八○年)二月五日の記述から始まる。
「右宰相中将(束帯)参入す。もしくは釈奠のついでか」。有宰相中将は参議を兼ねる有近衛府の中将。かっこ書きは装束の注記。釈奠とは孔子をまつる儀式だ。
 高名な日記の書き出しにしては素っ気ない。しかし、官職、装束、儀式などの無味乾燥な記述は業務日誌の特徴でもある。子孫のために有職故実を記録するわけで、『明月記』にはこの種の記述が実に多い。
 公家社会では官位が大事だ。『源氏物語』も筋だけ追うと、光源氏の恋愛と昇進の記録にすぎない。閉ざされた組織で生きる人々の関心は、スキャンダルと人事に向かう。それば二十一世紀の今も変わらない。
 文治元年(一一八五年)十一月、定家は源雅行に嘲弄されて激高し、暴力事件を起こす。二十四蔵。既に結婚していたが、この時期の日記は残っていない。青春彷徨の終わりを告げる事件だったかもしれない
 その後、鎌倉幕府と親しい実力者、九条兼実の家に出仕して「精励恪勤」。文治五年、左近衛少将に任じられ、しばらくは順調に昇進する。父の俊成から継いだ才能も花開き、歌壇に新風を吹き込んだ。
 ところが、建久七年(一一九六年)九条兼実が失脚すると、昇進はままならない。そのうえ、荘園経営にも問題が生しる。困り果てた定家は兼実の政敵で新たな権力者の源通親に頭を下げ、昇進を願う。
 それだけではない。人事が近いとなると、恩人の葬儀にも行かず神社に参籠したり、様々な縁起をかついだり。人事に影響力を持っていた「権門女房」藤原兼子について日記に悪口を書きながら、馬を贈るなど、ご機嫌取りに努める。
 期待していた元久元年(一二〇四年)春の人事で昇進が見送られると、もう我慢がならなかったらしい。四月十三日の記述には、定家の品性を疑いたくなるような、ひどい言葉を書き連ねた。
「在朝の中将は皆、人にあらず。あるは放埒の狂者、尾籠の白癡」。さらに昇進した人たちを名指しで、「業を成すにあらず。漢字を書かず。商賈の力、造作の勤めにより加任」と酷評する。
歌人の山中智恵子さんはこんな定家を、「歌は美の極北を歩みつつ、身は殿上の昇進に一喜一憂する小人物」と思った。それが、『明月記』を読み込むうち、「この憂いと焦燥とにみちた実生活の記録こそ、美しい詩藻を呼ぶものと思われた」(『「明月記」をよむ』=三一書房)という。短歌の実作者ならではの感想である。(編集委員牧内岩夫)

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いやはや、『狂乱の貴公子! リック・フレアー 』だったわけで。
さらに、ぐっと晩年の承久二年(一二二〇)二月十三日の内裏での二首歌会です。

かねて後鳥羽上皇の専横ぷりを不満に思っていた定家は、まず一首目『春山月』と題し、


  さやかにも 見るべき山は 霞みつつ わが身のほかも 春の夜の月


と、招聘されたことに対する不満を当てこすりにこめました。
そして、二首目が『野外柳』、

  
  道のべの 野原の柳 下もえぬ あはれなげきの 煙くらべに

ここで補足。「下もえぬ」「煙くらべ」は当時の宮中では不吉な言葉として禁句・NGワードになってました。
それを両方入れて、秀歌にするとは!

果たして、上皇はぶちきれ定家を勅勘(上皇が臣下を勘当すること)してしまいます。

以上、歌詠みが必ずしも文弱の徒という訳ではないという事例でした。


そうそう、本BLOGで定家は初見でしたね。
藤原定家ってのは、源家康ってのと同じで一族の姓を頭につけた呼び名です。
少なくても当時の苗字は、御子左、御子左定家でした(名乗ってはないにせよ)。
この御子左家ってのが道長の六男・長家を祖とする藤原系流、ってこで繋がってくるんですよ。

今後も本年大河に起因した、定家過去稿の復元があるかもしれません。

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