イエス・キリスト - 敢えて副題は付せず ~ クリスマス特集『時代と宗教と』
時代と宗教と イエス・キリスト - 敢えて副題は付せず クリスマス 月と木星 サディズムに花束を! オウム騒動 麻原彰晃 齋藤杏花 (さいとうあんな) 齋藤杏花 麻原彰晃曰く「私はキリストである」 イエス キリスト イエス・キリスト
冬至の昨日は、もうひとつ、気象天文の話題がありました。
チャート画像をごらんになったとおり、またしても木星と少々腹の出っ張ったお月が接近したのです。
ばっちし。日のあるうちから月が見えてましたんで注目してれば、暗くなり出して従えるように木星が浮かびだし。
ううん、天気予報の晴れはアテんなりませぬぞ。
全天の8割雲が覆ってても晴れですからねえ。
てなわけで久々の夜空観察が楽しめました。
さて、もうじきクリスマス、忙しくなってきました。
お正月に大した料理を食べない我が家は、一年で一番の"おごっそ"を食べる日ですからね。
作る人たる私は、てんやわんやなのです。
ん?姫が大きくなってお手伝いをしてくれるのでは?とな?
だからね、それで余計忙しくなんだな。
房総のある地区では、お正月いっさい女には一切台所をさせず男衆がやるって風習があるそうな。
そうなると余計大変、「おっさかあ、醤油はどこだ?」「○○は?」で腰の落ち着く暇がない、だから正月なんか大嫌いだ!
これと同じです。
てな訳でBLOGは手抜き致します。
幸い、サディズムに花束を!に一年に一度の聖夜向きの記事が残ってましたので、今日と一日空いてクリスマスの当日とに計2本復元します。
んで本日はずばりイエス・キリスト。
読んでみると、オウム騒動を請けての宗教批判になってますね。
これまた時期的にぴったり、本年2023年はあれやこれや宗教に振り回された年でした。
イエス・キリスト - 敢えて副題は付せず(2006年)
論者は宗教嫌いにして欧米嫌いである。
本稿においても、その立場一点張りで押し通すので、含んで読まれたい。
宗教とは人を幸せにするものであるとか、よく言われることだ。
だから、宗教関係者が犯罪その他の不祥事を起こすと、とんでもないバッシングがくる。
伝統ある宗教なら、個人的バッシングにとどまるのであるが、そうでない場合は…
その『新興宗教』はカルトと位置づけられ社会悪になる。
そして、全員に脱会が薦められ、既存宗教に宗旨替えすることが善という価値観一色に染まる。
抽象的過ぎたか。
「元オウム信者の○○は、牧師のケアによりマインドコントロールをとかれ、カトリック信者になった。めでたし、めでたし」
という具合にだ。
言わせればとんでもない話だ。もし本気で言っているなら、物を知らない証拠である。
お釈迦様もイエス様も、(自分が)人を幸せにするなどとは言ってない。
特に本稿主役のイエス・キリストに代表するなら、
「むしろ剣なり」
であるか?
地に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た…
念には念をということで断り書きを入れるなら、このマタイの福音書 10章34節~39節の解釈をしようというのではない。
ましてや、偉い牧師さんがたがした同節の解釈にケチをつけようという趣旨は、爪の先ほどもありはしない。
キリスト教が、クリスチャンが、人殺しをしなかったか? と問いかけているのである。
ある命題が偽であることを証明するためには、たった一つの反例をあげればよい。
十字軍、これだけ挙げれば十分な証明となる。
人殺しを容認している訳であるはずがないのに、さりとて明確に禁忌とすることもできない。
そこらが(キリスト教に限らず)宗教、といったところであろう。
万物の霊長といっても、人間とて生き物だ。
食料とするために生物を殺す。その食料が不足すれば、今度はその争奪のために人間どおしで戦う。
その為に、闘争本能というものが備わっている。そうでなければ、とうに昔に人間は絶滅している。闘争心は悪ではない。
そして、その昇華のために必然性がなくても争うことも。これまた悪とは言い切れまい。鍛えておかなければ、いざというときに機能しないから。
更には、争うことが悪ということになると、今度は屈折した形で発露させるのである。すなわち…
サディズム、マゾヒズム、本ブログのテーマである。
さて、大胆不敵且つ不遜に結論づけるとすれば。
キリスト教というのはヨーロッパ個人主義の免罪符であると思えるのだ。
「牛や豚は人間の食料として神様が創ってくださった物」
建前と本音の使い分けをしているのは我々でなく、むしろ彼らのような気がする。
ん、このイエス様のフリーイラスト。
麻原彰晃といわれても、ああそうだ、になっちまうぞ、あはっ!