『宗教は麻薬』から『宗教はサディズム』 ~ 池田大作・創価学会名誉会長の訃報に際して復元しておくとしましょう

MV-2.jpg
明け方降ったような気配の残る、新嘗祭の朝です。
天には月星、地には花、つーことでお庭情報から始めれば。
玄関先の四季咲きバラが、秋の旬を迎えております。
申し上げたよう、黄色が枯れてしまって桃と赤だけになってしまいましたが、私のみならず外に出て行く皆を和ませてくれます。
何が嫌い、これが嫌いには意外なものがありますが、花が嫌いって人は聞きませんね。
これぞ最大公約数っとこです。

逆に最大公約数的に嫌われてるのが、江川紹子滝本太郎ってとこでしょう。
何を隠そう、またちょっとありましてね。
江川の方からいきましょう。

奴がね。
案の定例の羽生結弦に喰い付いてSNSでとくとくとしてました。
そ、それをからかってまたブロックされたんですわ。
八つ当たりですよ。
内容とすれば当たり障りのないとこなのに、非難一色のX界隈ですもの、カリカリきてたんでしょうね。
それとも、袴田問題に関する正反対の意見を聞き捨てならないとしたか、
昵懇でもありませんので、どっちでもいいです。

滝本ですか。
こっちの方は私がカリカリしてるんでした。
だっていくら云ってもこのとこ、女性スペースばかりで。
80億総白痴化ツールの対決構造は、対LGBTということになってます。
けど、これは違います。
純然たる性差の利害対立も問題です。
一言で言えば、♀にとっては迷惑千万の似非フェミなんです。
女性保護と騒ぎつつ実は真逆に女の足を引っ張るばかりです。
何が何でも女便所をやるもんで、維持困難となった施設が便所自体を廃止してしまう例すら。
ああ、ここではいってなかったんですね。
外房線の永田駅です。
ったくぅ、♂は花壇にでも向かって立ちションしちまえばいいんですけど、筒っぽのない♀はそうもいかず漏らすしかないんですよ!
近場の永田ならデブしょーでも使わんとも限らない、漏らすことになったら一生涯恨みますから。
JREast-Sotobo-line-Nagata-station-building(cropped).jpg


えっと、何を云おうとしたんでしたっけ?
わかんなくなってしまいました。
楽屋話をするなら、昨日、『サディズムに花束を!』からの復刻を思いたった際、池田大作・創価学会名誉会長の訃報に関連して『宗教は麻薬』をあたるつもりだったんですよ。
それをすっかり忘れ、全然違うものをひろってしまってね。
思い出して、二日連続同カテゴリー投稿も芸がないもので、江川&滝本カテゴリからの投稿に加工して、と思い立って書き始めたわけです。

ところが『宗教は麻薬』はアレこれもやってしまってましてね。
もうひとつあるにはあるんですが、ちょっと外れてしまう。
そうしてるうちに『宗教はサディズム』って題で、オウムの噺してたのが見つかって、廻りまわってまた元のとこに…

何言ってるか分かりませんね。
すみません、自分でも文章が乱れてるって自覚はあります。
切り上げて見て頂きましょう。

宗教とサディズム

(2006年)

前・石井久子の稿で論者は、迷わずオウム真理教は宗教であると断じた。
全くの持論だ。宗教とはあのようなものだと固く信じている。

宗教は人を幸せにするためのものだ、などの奇麗事を論者は聞く耳を持たぬ。
お釈迦様もイエス様もそんなことは言ってない。
いやそれどころか。
人類発祥以来、人は宗教の力を借りてどれだけ多くの人を殺してきたかというのか?
人を殺すというのは抵抗があるものだ。人の性が善であろうが悪であろうが。
それが殉教のもとに戦いをするのなら、聖戦という名の人殺しとなる。
戦乱あるところに必ず宗教ありと言っても過言ではなかろう。

そして、同教徒・異教徒という明確なる壁で区切られた閉鎖空間の中で、人は内心に秘めている本性を現す。
例えば、持ち合わせているサディズムを爆発させる。
過去稿で論じたリンディ・イングランドの捕虜虐待の別側面でもある。


そうなんだなあ。
近隣住民と称してオウムに逆暴力ふるってたのは紛うことなく創価学会ですよ。
とんだとこで触れてました。

石井久子ですか。
こっちは逆に、てっきり復刻済と思いきや、まだだったんですね。
以下に掲げます。

石井久子 (宗教名 マハー・ケイマ) - 教祖と決別したと言われているオウム真理教元№2

(2006年)

9cae9172.jpg
比較的おとなしい論説が続いた。この辺でまた現代史を挟もう。
前稿で触れたシャーマニズム支配を請けてである。

この人こそが、かのオウム真理教のシャーマンである。
石井はその宗教上の地位を以て、教団内で死亡した内外の人々を葬った。
護摩壇に火をつけて死者を焼いたのは彼女だとされている。

暴走したかの教団…
修行中の死者も少なくない。
石井久子を目標に修行していた青年たちは、その彼女の手により焼かれた。

これは誰の意思に基づくものなのか?
勿論、教祖である麻原彰晃の意思だ。
この教祖は最盛期国内だけで万余いた信者たちを全て自分ひとりで管理した。
数ある世の組織の中、オウム真理教ほどのワンマン組織も珍しかろう。
そしてワンマン組織側近であるからこそ、側近たちの力が強まる。
即ち、側近たちはトップの口を借りて自分自身の意思を押し通すことが出来る。
さもなければ人に与えられた一日は等しく24時間、トップとすれば物理的限界に達してしまうのである。
したがって、石井の行動は教祖の意思でもあり、同時に彼女自身の願望でもあると言えよう。

この心裏は注目だ。
屍体加虐が感じられる。
映像等を通して垣間見る石井久子という人は、かなり勝気な女性だ。
論者には同類の匂いがプンプンと嗅ぎ取れる。そして…
閉鎖集団の中で、この巫女様のサディズムもまた暴走したと思えてならないのだ。

誤解なきように願いたい。
是々非々を論じようとしているわけではない。
あくまでも知りうることを基に、ひとりの女性の心理分析をしようとしているのだ。
そして、この事件に関しては…

知りうることが少なすぎるのだ。
というのは、オウム事件報道を手がけた人々が、「悪いのは教祖一人であり、残りはマインドコントロールをされた被害者」との定説めいたものを作ってしまい、石井を筆頭とする信者たちに触れることをタブー視する風潮を作ってしまったからだ。
ちなみにこれはマルクス原理主義の歴史観そのものなのであるが、それはさておいてもオウムほど意図的な偏重報道がされ続けた集団も珍しかろう。
故に石井久子の心理分析にしても、「思えてならない」以上の結論を出しえないのである。
一体全体、国民の知る権利はどこに行ってしまったんだ? と文句の一つも言いたくなるのであるが。

繰り返し念を押す。
行動の是々非々を論じようと言うのではない。
マスコミの真似事をしようとしているわけでもない。
ましてや、紙上擬似裁判をやろうとなどとはこれっぽっちも思っていない。
歴史上出現した一つの宗教、その宗教上の地位№2の心理なり性格なりを分析しようと思っているだけなのである。


173-3.jpg