さてさて、おらほうの地区は第一土曜が草ごみの日。暑くもなく幸い雨も上がった昨日朝は、一家総出で植木鋏を振るいました

senteishi_gomistation.jpg
そうなんですよ。市指定のバカ高いゴミ袋("1枚"45円も取るのよ!)でなくても出せるのが、草ごみの日の魅力なんです。
月2回の千葉市草ごみの日を話題にするのも、昨年来の事でしたか。
そうそう、その折はフヨウの木をばっさりやった事を書いてますねえ。
やっぱ、やり過ぎだったの…かなあ?

もう9月ですよね。
今年は未だにフヨウが咲かない。去年は8月上旬には花つけてたのに。
第一枝が伸びてこない、出てるには出てるようですが他の植物に隠れて見えもしないのです。
流石に伐りすぎたかな?まあいい枝は出てるには出てるのですから捨てたもんではない訳です。

兎も角あってすよ。
そのフヨウを覆い尽くしちまってる程に茂った周りの植物の床屋さんをやるのが先決ですね。
じぃじが死んだごたごたでお留守になってた作業に一族郎党で掛かりました。

やっぱ(手をつけるのは)どうしてもアジサイになるな。
一体何本あるんだか。
ちゃんとした花の咲くのは2、その他に色違いと形違いが1本ずつ、計4本で、あとはガクアジサイか甚だしくは観葉植物のアジサイなのです。

さてまあ、アジサイの話題は聊か季節はずれになってました。
けどまあ、万葉集のアジサイの噺は今までしたことないですよねえ。
それもその筈、万葉集のアジサイの歌はたったの2首だけなのです。
今日はそのうちの一首、巻四773を行きましょう。

m0773.jpg

言問はぬ 木すら紫陽花 諸弟らが 練りの村戸に あざむかえけり

詞書きに大伴宿祢家持久邇従京リ坂上大嬢ニ贈ル歌五首とあるとおり、5連作のうちの一首です。
ああ、分かります、恋文ですね。
使いの若い者の言葉にすっかりだまされてしまった、と。
何で調子のいいことばかりで実際はつれないのですか?と恨みを込めて熱き情を訴えてます。
紫陽花は物言わぬものの代名詞で、そこを序におしゃべりな使いを対比的に導き出してる訳で。

ところがです。
岩波の萬葉集では、弟の字が茅になってて、「諸茅とは未詳であるが恐らくは何か変化しやすい植物」と解説されてるのです。
そうなってくると紫陽花と対比ではなく並列で、「紫陽花や諸茅のようなもの言わぬものでも変化するのに」とここまでが、 練りの村戸=屈折のある心を導き出す序となるのです。

でもねえ、家持センセ、ここは捻くれ気味の深読みしすぎでしたよ。
間違っても、あざむきかえりではなかった…

坂上大嬢とは文書に残る大伴家持の妻の名です。

大伴家持[1].jpg