17年前『目指せ!! 平成の女蜀山人!』やってた時の大河が義経だったんです。その折の『万葉時代のよいしょ合戦』をば復元します

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楽屋話中の楽屋話から噺を始めるなら。
プライベートルームにTVが戻ってまいりました。
いやいや、ピグセラ・PRODIAは望むべくもない。
極々あり合せの安物です。
そりゃシングルチューナーだとは聞いてましたよ。
けどまあ、録画中は他のジョブの一切が出来ないとまではねえ。
しかも再生を一度止めてしまうとまた最初からになってしまって…
こりゃちっと予想外、けどまあ何でもいいから買ってみなけりゃ次の作戦が立たないとしてことで、是非もなしでございます。
てな訳で、再び大河の録画見返しは出来るようになりました。

過去が消えてしまって、残念ながら壇ノ浦の段は見られなくなりましたが。
今放映の『鎌倉殿の13人』の義経は最高でしたよ。
今までにないキャラ設定で大いに唸らされていたのですが、あれまでが消えてしまったのは、今更ながらに諦めが付かないとこです。

さて、17年前『目指せ!! 平成の女蜀山人!』やってた折の大河が義経だったんですよ。
壇ノ浦から万葉集に思いを馳せた対の投稿がでてまいりましたので、復元して本日の万葉稿します。


これも積み残しと言える…かな?

2005年09月05日


さて、昨日は某国営放送・大河ドラマの放映にあわせ、壇ノ浦の特集を組んだ本『目指せ!! 平成の女蜀山人!』。
ご当地ソング集である万葉に、壇ノ浦があるかも調べてみました。
遣新羅使人の歌あたりにひょっとしたら、と思ったりもしたのですが、あれは大分の方に行っちゃったんですよねえ。

まあ、そんなわけでそのものずばりは見つからなかったんですが…
巻六-一〇二四を読んでみましょう。

長門なる 沖つ借島 奥まへて わが思ふ君は 千歳にもがも


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この借島ですね。
長門国の中であるが所在未詳。阿武郡田万川町江崎の沖の加礼島説(吉田氏地名辞書所引一書)、萩市鶴江台説(吉田氏地名辞書)、阿武郡見島説(全釈)、下関市蓋井島説(室田浩然氏)などがある。
つーことでございまして、これが近いようで。

長門なる 沖つ借島 までは、奥まへて=将来のことを考え を導き出すための序。
つまり作者である長門守巨會部對馬朝臣なる人物が、自分の受領名・長門を踏まえて、大臣である橘諸兄をよいしょした歌という事になりますね。

実は、橘諸兄でまた源平合戦の話に結びついたんですよ。
ほら、手塚漫画代表作『火の鳥』。
『鳳凰編』の主人公・我王が、鞍馬のテングとなって再登場。源平争乱をかつての諸兄らの権力抗争に重ねて見守った『乱世編』。

何を隠しましょうか、昨日はこれを引っ張り出して読んでたもので手間取りまして、あはっ!



劣位の三角関係…  あん?!

2005年09月05日


降る雪の 白髪までに 大君に 仕へまつれば 貴くもあるか


諸兄b950be3c.jpg
では今度は橘諸兄のよいしょです。
巻一七・三九二二。

私、「よいしょ」と言い切っちゃいました。
ええ、柿本人麻呂 to 天武・持統 の壬申パワー最盛期とは時代が違ってますもの。

時代は退廃の孝謙時代との中間点。そして大君=元正天皇は女帝。
これはことによったらことによるかも、あはっ! は自粛。。。


Empress_Genshō_Tsubosaka-dera.jpg元正天皇
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元正天皇

元正天皇像(南法華寺蔵、江戸時代)
第44代天皇
在位期間
715年10月3日 - 724年3月3日
霊亀元年9月2日 - 養老8年2月4日
元号	霊亀
養老
時代	奈良時代
先代	元明天皇
次代	聖武天皇
誕生	天武天皇9年(680年)
大和国飛鳥
崩御	天平20年4月21日
(748年5月22日)
大和国平城宮
漢風諡号	元正天皇
和風諡号	日本根子高瑞浄足姫天皇
諱	氷高・日高・新家[注釈 1]
父親	草壁皇子
母親	元明天皇
皇居	平城宮
女帝
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元正天皇(げんしょうてんのう、680年〈天武天皇9年〉- 748年5月22日〈天平20年4月21日〉)は、日本の第44代天皇(在位:715年10月3日〈霊亀元年9月2日〉- 724年3月3日〈養老8年2月4日〉)。

父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひだか)・日高、または新家(にいのみ)。和風諡号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたかみずきよたらしひめのすめらみこと)である。漢風諡号の「元正天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって撰進されたとされる。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験はなく、独身で即位した初めての女性天皇である。


目次
1	来歴
2	系譜
2.1	系図
3	陵・霊廟
4	在位中の元号
5	登場作品
5.1	漫画
5.2	小説
6	脚注
6.1	注釈
6.2	出典
7	関連項目
来歴
天武天皇の皇太子であった草壁皇子の長女として生まれる。母は阿閇皇女(のちの元明天皇)。天皇の嫡孫女として重んじられたようで、天武天皇11年(682年)8月28日に、氷高皇女の病により、罪人198人が恩赦された[2]。天武天皇12年(683年)、3歳下の同母弟の珂瑠(のちの文武天皇)が誕生。

父の草壁皇子は即位に到らず持統天皇3年(689年)に薨去し、祖母の持統天皇の即位の後、同母弟の珂瑠皇子が文武天皇元年(697年)に持統天皇から譲位されて天皇の位に即いた。当時氷高皇女は18歳であり、天皇の同母姉という立場が非婚に影響したものと思われる。

慶雲4年(707年)に文武天皇が崩御し、その遺児である首皇子(のちの聖武天皇)がまだ幼かったため、母の阿閇皇女が即位、元明天皇となった。和銅3年(710年)、平城京に遷都。和銅7年(714年)1月20日、二品氷高内親王に食封一千戸が与えられる[3]。和銅8年/霊亀元年(715年)1月10日に一品に昇叙[4]。

霊亀元年9月2日、皇太子である[注釈 2]甥の首皇子(聖武天皇)がまだ若いため、母の元明天皇から譲位を受け即位。「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。

養老元年(717年)から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める。

養老4年(720年)に、日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなった。翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹の吉備内親王の夫であった。不比等の長男の武智麻呂は中納言、次男の房前は、未だ参議(その後内臣になる)であった。

養老7年(723年)、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。これにより律令制は崩れ始めていく。

養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となる。譲位の詔では新帝を「我子」と呼んで、譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。

天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった聖武天皇に代わって、橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られている。

系譜