大阪のビル放火殺人、容疑者の名前が谷本盛雄と公表されたとこで、ようやっと本BLOGもおもむろに件の事件を。ホント、あんなっちゃう!

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夕べは今年最後の満月だったですね。
雨戸を閉めにいったらお月様まん丸でそうでないかと調べてみたらやはりそうでした。
何でも師走の満月はゴールドムーンと呼ぶとかで、また今年最小の満月でもあったとか。
手先が凍えるのを忘れ、暫く見入ってしまいました。

さてまあ報道が曖昧何やらさっぱわかんなかった大阪のビル放火殺人事件、ようやっと少しは情報が出てきましたよ。
なんでおもむろにお噺しします。

私はこの事件の一報 (当時は事故) 聞いた時、大変な大ニュースだと思ったんですよ。
その割にはなんか、余り話題にもなっておらず、そのせいか情報の質自体も低いもので。
しこうしてる内に、放火の疑いという文字が躍りだし、急速に当初の驚きがトーンダウンしてしまいました。

事故だったら大変な大ニュースだけど、放火ならさもありなん…
これ、恐るべきですよね。
でも正直、齋藤杏花 (さいとうあんな)の偽らざる気持ちで、ホント、あんなっちゃう!で御座います。

一足飛びにもってっちゃいますと、現在の建築基準は火掛けられる事を考慮に入れてつくられてないって事なんですよ。
失火には強くても放火には弱い
ある意味、文明災害ならぬ文明事件とで云ったとこでしょう。
これがね、例えば江戸時代だと話がまったく違う、
火付けは人殺しより重い犯罪でしたよ。
ねえ、火付盗賊改メ方で火付の方が先に。

そうなんですよ。誘発されて一昨日、鬼平の『火付け船頭』を散々に。
やっぱ原作が生々しい。燃え上がる炎を見て鬱積したものが一気に雲散霧消する船頭常吉の心裏が、池波正太郎さんの筆で描写されてます。
今日は『サディズムに花束を!』から、鬼平ではなくて、お馴染み・八百屋お七を復元してみましょうか。
創作の世界ではお七と混同された別の♀放火魔『おきく』と2稿続けます。

八百屋お七 - 火付けの真意は果たして?

(2006年)

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「火事と喧嘩は江戸の花」
当時人口世界一であったこの木造都市は宿命的に大火に見舞われた。
中でも天和2年(1682)のそれは、本郷の八百屋の娘・お七の放火による大火である。
演劇等で有名な逸話であるので、くどく述べる必要もあるまい。
恋しい寺小姓に会いたいがために、火をつけたと伝えられる。
文字通りの燃える恋、西鶴の『好色五人女』の中でも一番有名な彼女だ。

ということになっているのだが、そう言い切ってよいのであろうか?
論者は些か腑に落ちない。
極々初歩的な話だ。因果が結びつかないのである。
即ち彼女の目的達成の前には、①火事で近隣が丸々焼ける ②且つ自分は無傷で非難できる ③小姓の寺にまで火が及ばない
の三つの偶発事象を全て引き当てなければならないという、関所が立ちふさがるのだ。
しかも仮にこの関所を超えたとしてもその先、同じ寺が避難所になる保障もないのである。
余りにも原価性のない意思決定ではなかろうか?

寺小姓に会うための手段なら他にないわけでもあるまいに。
いかに恋は盲目とはいえ、こうまで狂ってしまうものなのだろうか?
逆に、ここまで狂ってたとしたら、放火などという綿密な計画と実行力の要る犯罪が実行できたであろうか?
他のモチベーションがあったと考えるほうが尤もらしい。

ずばり結論を言えば、お七という娘は放火マニア…
汚涜症の一種にして、更に大元の括りはサディズム、パソリーの稿で論じたあれであろう。
勿論、恋もあったろう。だがそれよりも、彼女は…
先の火事で垣間見た、町を呑み尽くす紅蓮の炎に魅せられてしまったのではないだろうか?
果ては火あぶりの刑に処せられると知りつつも止めることができないほどに。

論者にはそう思える。

八百屋お七の火付けは、恋というよりは故意、
別ブログなら差し詰め、この種の語呂合わせで締めるであろう本稿だ。

おきく (梅乃) - 恋の病に病死した江戸娘

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振袖火事は、お七よりも先の出来事であったか?
いずれにせよ、さほどの年月の違いはない。
振袖火事とは、明暦3年1月18日(1657年3月2日)に起きた明暦の大火の別名である。
その別名のいわれとなったのが、本日俎上にあげた女性だ。

おきく…
異説もあるがこの説に従おう。
エピソード的には、お七と非常によく似ている。多分に混同はあるのだろう。
が、決定的に違うのは、彼女は火付けをしていないことだ。
おきくは振袖火事に先立つこと2年ほど前に鬼界に入っている。享年17歳とも16歳とも。
副題にしたように、恋の病に悶死しているのである。恋しい恋しい振袖を愛撫しながら。

彼女が恋したのもまた寺小姓だ。
一目の恋に誘われたおきくは親にねだり、小姓が着ていたものと同じ柄の振袖をこしらえてもらうのである。
そして、その振袖に日な日な寺小姓の姿を重ね想い続けた。
述べたように、死のその瞬間まで…

あえて述べるまでもないだろう。衣服フェチシズム。
それもとてつもなく強烈な。
それが証拠に、その振袖を着た娘たちは次々病死、そして2年後には江戸の町の大半を焼き尽くす大火を引き起こすのである。

衣服フェチシズムは圧倒的に男性に多いフェチシズムだ。
いや、男性のほとんどは身に覚えがあるのでは?
と問いかけて弁護しておこう。
男性の衣服フェチの大半は本来の性対象を、少なくても性対象をも追っている。
衣類に染み付いた(性対象たる)女性を五感を以て感じ取るべく試みる、
平たく言えば、女性の身に着けていたものを嗅いだり舐めたり身体のどこかに押し付けたりしている、ということだ。

街頭で一目見ただけの女の洋服と同じ模様の紳士服を誂え、夜な夜な愛撫しながらやがて悶死、などという男性は先ずいまい。
事例の少ない女性のそれが暴走してしまうとなると、かくのごとくである。

おきくの逸話といい、お七のそれといい。
本来受身である女性が逆転、攻撃側に回った場合、いかに恐ろしいことになるかを後世に遺してくれている。


はい、かの折は放火マニア、汚涜症の一種の放火症とでもいうべき精神異常を前提に結構掘り下げてます。
続けてそうだ、陸ブル盗撮の稿でも引用したアレ、
トチ狂って、金閣寺を法隆寺と云い間違えた原文のまま載せます。
もうひとつ注釈を加えるなら、パソリーとはバトリの別読みですね。
高橋鐵はこのように英語風によんでたんだなあ。
ですので、バトリ・エリジェベト (エリザベート・バートリ) の事とは思いもよらず、この人物のことは知らないなどと書いてる15年前の齋藤杏花 (さいとうあんな)です。

エリザベス・パソリー - 吸血症の妖女、別の奇行とは?


冒頭お断りする。論者はこの人物のことは知らない。
知らない、が、知らないなら知らないなりの論じ方は出来る。
それを心に留めお読み願いたい。

エリザベスという名からすると、英語圏の女性であろう。
すると、引き裂き魔・ジャックリパーあたりと同列に置かれる狂人?
ともかく、吸血症で有名だったらしい。

と、論者がこの人物の記載を見つけたのは、別の奇行の例示からである。
美しい侍女たちを裸にして乳を噛んだり口を縫い付けてしまったりした…
汚涜症と呼ばれる加虐フェチシズムだ。

性行為を表現するのに「ケガス」「ゲガレル」という俗語があるであろう?
文字通りのそれである。
実際性交しえないものを汚したり傷つけたりして代償満足を得ようとするものだ。
この種の痴漢は昔よりあとを絶たない。

また絵画彫刻などの美術品ですら、同様に傷つけられたりする。
たった今、聞いていたニュースで、法隆寺が傷つけれたことを知った。
そういえば昔放火されたか。
「こんな美しいものが、この世にあっていいわけがない」
と考えた青年の手により。

汚涜症は独占欲と結びついた女性型のサディズムであると言えよう。
男性のサディストは女性的な性格が多いということは、ネロの稿で書いたとおり。
本当に、人ごみなどで女性の衣服にインクを掛けたりナイフで切ったりする痴漢は、女の腐ったのであると言えよう。

このようにサディズムというのは、どうしようもないような代物なのか?
あながちそうとばかりも言えまい。
これは書籍からの引用であるが、全くの我が意であるので論者の意見として書き記す。

サディズムの一部は性愛生活の一部として、うまく消費されていく。乗位、愛咬、抱きしめ、等々である。
更に一部は社会的に価値がある高度な行動に変化してゆく。
例えば、
科学者が研究対象を攻究し学び取り解剖し把握するたくましい情熱に。
事業者が道を切り開き競争していく闘志に。
著述者がやわ腕に剣よりも強いペンを持ち、巨大権力を切り伏せる反骨心に。
そして、勤労者が低賃金であることも忘れて職責に没頭し、そのかたわら経済闘争・階級闘争の熾烈を運動へ参加する勇猛心に。

が、あまり甘やかされて育ったり、あるいは逆に周囲から圧迫されて攻撃性が全然発揮できなくなったりすると…
サディズムは必ず何かの折に爆発する。

近年の現状をつらつらおもんみるに。
女性のサディストというは数少ない存在である。否 不正確だ。顕在的な女性のサディスト、である。
SMという需給関係からすれば、たたでさえ甘やかされやすい存在だ。
で、巷間ネットにおける事情である。将に前者「あまり甘やかされて育ったり」の典型例ではないか!

加えて、SMということばが商業主義の目に留まったことが悲劇であった。
ネット界隈での主役たちは商業主義そのものというよりは、その尻馬に乗った遊び仕事の連中だ。
さしたる利潤を得ているわけではないからよいではないかと大きな顔をして、S女と称する人種を甘やかしまくる。直接そうしないまでも甘やかしまくる連中を側面フォローし続ける。
そして、歯止めをかけようとするものを妨げるのが、IT・ポータルサイト産業の面々その人たち。
彼らが都合上作ったネットマナーなるものに照らし合わせれば、とがめだてするものはサイト荒らしという「絶対悪」にされてしまうのである。

繰り返すが、サディズムは必ず何かの折に爆発する。
爆発したが最後、彼女はこの稿で論じたエリザベス・パソリー、過去稿で論じてきた残忍不逞なファッショ政治家、貪欲過酷な搾取者、そして凶悪殺人者…
このような地獄の番人になりさがってしまうのである。
差し詰め、巷間ネットのSM『業者』、『業者もどき』は地獄への案内人といったところか?

ここらで切り上げよう。
本稿の論者は些か感情的であったかもしれない、最後はフォロー。

『サディズムに花束を!』からもう一稿復元しましょう。
現代日本からです。
くまぇりを覚えてらっしゃいますか?
ほら一斉を風靡した諏訪の放火魔。
余談ながら極めて面白いことにですよ。
あの大内万理亜と誕生日が同じ、10月5日なんですよ。
しかもジャスト10歳差です。

平田恵里香 - 『くまぇり』の名で自らの全てをネット露出した放火魔ブロガー


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今この瞬間は、瞬時にして過去となる。
かの会田美喜のことも畠山鈴香のことも、そのようにして過ぎ去った。
そして、また歴史には新たなページが書き加えられる。
而して本稿がある。事情で消された彼女のサイトが未だ検索キャッシュで拾えてしまえるくらいに近しき過去の出来事である。

奇しくも、「ブロガーとは露出症者」と論じたばかりだ。
芸能関係者とは露出症を高度に発展させ職業化したものであるということも。
タレント志望である平田恵里香の、ネットにおける露出はそれ自体は問題はない。
職業として目指したものも正解だ。
だが露出したものが許されざるものだった。
自ら犯した放火(の仄めかし)、そしてその裏にある彼女の性向…
八百屋お七の稿で論じたことそのものであるが故に結論のみにとどめよう。
放火マニア、汚涜症の一種にして、大元の括りはサディズム…

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ジャーナリズム各位。
「ついにここまできたか」の論調は正しい。
だからこそ、「夢に行き詰まりストレスが溜まり…」の出来合い結論で片付けるのはやめて欲しいのだ。
ストレスが溜まった人間のうち一体が何人が、火付けをしたというのか?
事件を起こした彼女の心裏を掘り下げ、この切り口から、一人の女性の暴発したサディズムが惹起した社会不安を報道しなければウソであろう。
今でこそ軽く見られがちなもののかつては人殺しより重い、問答無用で火あぶりの刑に処せられた犯罪なのである。

そして、ネット関係だ。
彼女は積極的に露出した。こうして顔写真が意図も容易に入手できてしまう。
この恐ろしさだ。
仮に平田が罪を償い戻ってきたとしても、彼女の顔は広く知れ渡るところになっているのである。
「便利イコール危険」、ネット関係従事者は言うべきこの言葉を、なかなか発せようとしたがらない。

論者が代行する。
「ネット上に軽々しく顔写真を晒したら、取り返しのつかないことになりかねませんよ」


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