日本皇室史上、女系天皇はありません。念の為に ~ 続・『大君は 神にしませば 』今も昔も
万葉集 万葉のこころ 万葉の人々 犬養孝 女系天皇 阿騎の野に 宿る旅人うちなびき 眠も寝らめやも いにしへ思ふに ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とそ来し 東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月かたぷきぬ 目並の 皇子の命の 馬並めて 御猟立たしし 時は来向ふ やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京をおきて 隠口の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 石が根 禁樹おしなべ 坂烏の 朝越えまして 玉かぎる 夕さりくれぱ み雪降る 阿騎の大野に 旗薄 小竹をおしなぺ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて 草壁皇子 軽皇子 柿本人麻呂 元明天皇 元正天皇 齋藤杏花 (さいとうあんな) 齋藤杏花 齋藤杏花facebook Facebook 小室眞子 目指せ!! 平成の女蜀山人!

思えば先月の事だったんですよね。あ、今現在の皇室の話で書き出したの。
そして2週間となる今日の時点でも、未だ件の(元)内親王様の事が週刊誌ダネながらも話題になってることに驚かされます。
ですから、元婚約者の借金のなどというネタには元より関心なし、いずれの折にも噺すことなどありえないしょう。
齋藤杏花 (さいとうあんな)がお噺しするのは、波及して惹起した女系天皇に関してなんです。
ここで冒頭画像。
母から娘への譲位で即位した元正帝が女系天皇なのでは?と。
…んなバカな!
本気なんだかツリなんだかは存じませんが、一応は反論しときましょう。
元正さんは2代前の文武天皇の同腹のお姉さんですよね。
お父さんは草壁皇子、天武帝の皇太子でありながら諸事情で帝位につく事もなく世を去った…
だから、皇后の鸕野讃良が即位して持統天皇になったって訳で。
お母さんの元明天皇もまた男系、天智天皇の娘です。
文武帝が早死にしたもんで、これまた急遽お母さんである元皇太子妃・阿部皇女が即位して元明天皇になった訳でして。
余談ですが、私、とんだ勘違いをしてたようで。
いやいや、元明天皇が紙幣の肖像になったことがあるなどど。
ただ美形だったとしか記述が残ってない人物の肖像なぞ作りようもなく、仕方なしに造幣局の女子職員のお面のいいのをモデルにして描いたってこれは、神功皇后とごっちゃにしてたかな?
あるいは和同開珎が頭にあって?謎です。
ま、余談はいいとしても、何度か言った『古代の女帝は皆皇后経験者』、
これはチト不正確でした。
述べたように、元明さんは皇太子妃のあがり、そして元正さんが近世女帝と同じく生涯未婚でした。
話を戻しましょう。
このように日本皇室には、未婚 (必ずしもそうでなくてもいいんだけどこの際話をややこしくしない為に) の女帝が婿さんとって出来た子どもが将来即位するという、女系天皇は存在したことがないのです。
こには天皇と言うのが皇帝なんかよりもむしろ上位で、臣下の者が玉体(肉体)を傷つけることなど許される事はありえない、という哲学がありましょう。
前にお話したよしながふみ・大奥の序盤に件の哲学が披露されてました。
おっと、本稿は万葉ネタでしたね。
万葉集4500余首の中に、元明・元正の歌もなきにしもあらず、
けど、これは機会があればということにしましょう。
今日は、中学教科書でもおなじみの、『東の 野に~』を取り上げますか。
私のことだ、『目指せ!! 平成の女蜀山人!』で熱稿をあげてますね。
軽皇子、即位して文武天皇、これを踏まえてお読みになれば、今までお話してきた人物たちの相関図がご理解頂けます。
全部を見なけりゃなんともいえないさ と、この台詞『某画像板』に書き込みしてる人たち向け2005年06月28日
軽皇子の安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京をおきて 隠口の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 石が根 禁樹おしなべ 坂烏の 朝越えまして 玉かぎる 夕さりくれぱ み雪降る 阿騎の大野に 旗薄 小竹をおしなぺ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて
短歌
阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき 眠も寝らめやも いにしへ思ふに
ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とそ来し
東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月かたぷきぬ
目並の 皇子の命の 馬並めて 御猟立たしし 時は来向ふさあ、昨日ふれた『東の~』の全体解釈です。
見るとこれも、よくネット検索に引っかかりますね。
そして、大概は単独でとりあげられてる。
蕪村「菜の花や月は東に日は西に」と同趣旨、雄大な自然の風景を歌ったものだ、的解釈になってますね。
隠し立てはしません。うちも昨日それ的なムービークリップをリンクされました。
ただ、(巻一-四五)~(巻一-四九)一連で見れば全くそれが間違いであることが分かる、
先ずは背景から説明しましょう。
軽皇子の父、草壁皇子は事情あって天皇即位できぬまま28歳でなくなりました。
この歌は、その後日、軽皇子が父・草壁皇子ゆかりの安騎野をいわば「追悼狩」のために訪れた折の歌です。
時節は旧暦11月の半ば、一晩の野営が時系列的に歌い上げられていきます。
まず、長歌で全体像と安騎野に入るまでの時点が歌われ、そして、いよいよ4首の反歌へ。
まさに芝居で言えば、一景~四景、時間的にも心情的にもどんどんと進んでいく様子が読んで取れます。
第一反歌で、「宿る旅人 ~ 眠も寝らめ」亡き草壁皇子が偲ばれて寝ようにも寝られない、第二反歌で、荒涼たる周りの光景に目がいく、そして、第三反歌です。
これを天文学的に解析すれば、新暦12月21日の午前五時五十五分とのこと、もっとも冷える時分ですね。
冷える、冷える、身体も心も。
一晩中まんじりとして一睡も出来なかった一行の、おどろおどろしいばかりに荒涼とした光景に共鳴した心情を歌い上げたものといえるでしょう、この『東の~』は。
そして、第四反歌、夜明けとともに野営を払って狩へと出かけるところを歌ってフィナーレとなるわけです。
まさに部分だけを見ていたならその真価は分からない、の好例ではないでしょうか。
似たような例、といいますか、全然にてない例、といいますか、J・シュトラウスの代表的喜歌劇『こうもり』。
これも各曲ばらばらに聞いたのでは、その真価が分からないねといわれてますよねえ。
と、いつものようにいつものごとく、全く別の事象を結びつけてオリジナル性を演出する 齋藤杏花 (さいとうあんな)当時のHN の本日最終稿でした。
ついでですから、東の~単独稿も。
上記では、『昨日』とありますが、少々ずれてるようです。
くだらないお話を2005年06月10日
東の 野に炎の 立つ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ巻一・四十八、人麻呂の有名な歌ですね。
では、久々に『もう一つの万葉集』李さんの読み下しをご紹介しておきましょう。
同書は、原文、
東 野炎 立所見而 反見為 月西渡
を、
暁の 星数え居て 御目文字し 嬉しがれば 頷かれ行く
と読み下しています。
そして、漢詩というキーワードが。
まあ、この歌に関しては古代韓国語(百済語でいいのかな?)よみでも歌意は、ドラスチック (たとえば「『初瀬村の杏花 (あんな)』さんの歌」が天皇の即位歌なったようには) に変わってはないようですが。
ただ、一つ言えば、この歌は四十五番の長歌、四つある反歌のうちの3番目ですよね。
四十五~四十九までで、どんな意味なのか書いて欲しかった、ってのが『もう一つ~』に対する私の感想です。
ということで、この歌の従来説はまた話題にしましょう。
さて、当時の日本にとって、百済とは。
シルクロードを通じて集まってきた世界の品々はすべて百済を通じて日本にわたってきたわけです。
百済物でないのは粗悪品、くだらない、という言葉はここからきたのですね。
まあ、日本人の舶来品信仰を如実にあらわしてて、あまり愉快ではないのですが。
そうそう、大昔「くーだらない、くーだらない」という台詞が流行ってたころの小学生は、社会科で百済の記述がでてくる都度大笑いしたそうですよ。
くだらない話の原型でもありました。