いやはや我ながらですわ。随分とまた受験以外に精力をつぎ込んでたJK3もあったもんですよ。よくまあこれで、と呆れるばかりです

maxresdefault (1).jpg
今秋は、どうも季節感のはっきりしない日々が続きます。
本来なら、クレープ第2弾・追伸
 ♪~なでしこの はなが さきました~
   ふようの はなは かれたけど~
って歌詞が似合うような時期なんでしょうかね。
さて、日曜恒例の万葉噺を行きます。

うーん、枕にすべく時事で噺すネタもあるにゃあるんですがねえ。
どうしてもそこから万葉に繋がらない。
仕方ありません。ざっくり枕なしの『目指せ!! 平成の女蜀山人!』復元で行きましょう。

2005年08月21日は精力的に、遣新羅使人の歌を書いてますわ。
確か、下記は未だでしたよね。
これと混同しやすいもので、またヘンなこというのでは?と恐る恐るの復元です。

いや~、またアーカイブ類が開かなくなってしまいました


9bb4f496.jpgさて、すでに皆様にはお気づきのことと思います。
7/16以降一時中断していた本『目指せ!! 平成の女蜀山人!』、それを境に各カテゴリを2順目に突入させました。
つらつらと眺め渡すに、2順目に入り(本格的)万葉の項が進んでませんね。
いや、犬養先生の直弟子である私としたことが。
ってことで、巻十五.三六一五 三六一六を行きましょう。


   我がゆゑに 妹歎くらし 風速の 浦の沖辺に 霧たなびけり


   沖つ風 いたく吹きせば 我妹子が 歎きの霧に 飽かましものを



安藝国(あぎのくに)風速(かざはや)の浦に舶(ふね)泊てし夜、よめる歌二首 の詞書の付いたこれらの歌は、巻十五に収録された遣新羅使人の歌です。
万葉集には天平8年(736)の遣新羅使人の一行の歌一五四首が収録されています。
本職の歌詠みの作ではない、だからこその叙情溢れる歌風は後の日本詩歌のいわゆるひとつの定番になったともいえるでしょう。

さて、歴史的観点から切り込めば、この一行の旅は非常に難儀を極めましたよねえ。
なにせ、当時の日本は新羅から相手にもされてないような国情に加え、道中も苦難の連続。
なんと瀬戸内海を渡るのに1月以上を要してしまったのです。

その瀬戸内海縦断中途のこの歌は、前にご紹介した一首とセットで鑑賞するとよいでしょう。
夫婦愛を伝える歌としてよく知られた歌です。                           


前にご紹介した一首とは 君がゆく 海辺の宿に 霧立たば 吾が立ち嘆く 息と知りませ です。犬養先生の講義の定番といっていいでしょう。

そして連投してる 新羅へか 家にか還る 壹岐の島 ゆかむたどきも 思ひかねつも は、反転リンクの稿で確実に噺してますわ。
歌自体は2度目になります。

また今日も投稿だけでリンク貼りは後日回しです


新羅へか 家にか還る 壹岐の島 ゆかむたどきも 思ひかねつも


7dd1b951.jpg

さて、難儀を極めた遣新羅使人の一行、秋の頃になり漸く外海である玄界灘へと出ます。
思えば、難波の港を出たのが6月、これは予想だにしないもたつきようでしょう。

波の静まることのない言われている玄界灘の荒海、今でも船で渡れば必ず船酔いすると聞きます。
穏やかな内海の航海ですら散々揺れた一行の船がどれだけ揺れたかは想像に難くありません。
そして、ついに犠牲者がでます。

壹岐の島(今の長崎県壹岐郡)にかかったとき、一行のひとりの雪達宅満が、死病にかかって死ぬのです。

当時は壹岐(いき)ではなく「ゆき」と読みました。
「新羅へ行こうか、それとも家に帰ろうか、ちょうどユキの島のところでこれからのゆくべき手立てもかんがえつかなくなってしまったよ」
もう、どうしようもなくなってしまった、の気持ちが伝わってきます。

分かります、分かります。
うちも7/16にリューアールとなったとはそんな気持ちになりましたよ。
なんど、「尊厳死」させ…
ってツマンナイ愚痴はやめてっと。

この歌の作者は、六鯖というひとです。
ヘンな名前! いや、六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)の略と伝えられるのですが。

何でも略せばいいってものでもないですよねえ。
日本舞踊、略して日舞。
では、デンマーク舞踊は?
インド舞踊は?
ってね、あはっ!


いやいや。上記画像って、また犬養講座付録冊子からの手スキャン
JK3の私は、随分熱心にWEBやってたんですね、あはっ!