『そもそもCOVID-19っちゃ、そんな恐ろしい感染症なのでしょうか?』各論・第一回 ~ 子ども達の感染

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うっそ。
昨日は、確か朝の段階では雨の予報はなかった筈。
それが昼過ぎだったか、突如本格的な雨にあって水も滴るいい女になってしまいました。
いえね。女心と秋の空は、チト、意味合いが違うんでないか?と補足入れようと思ってた矢先に、図らずもその必要はなくなってしまった訳です。
本文もまた、昨日の続編的内容でお話します。

さてさて、うんざりというのも飽き飽きするほど、繰り返し報道されてるコロナ情報。
その中で学校感染という言葉が気になる昨今です。
各論・第一回、今日はその子ども達の感染のお噺をお届けしましょう。

学校といっても、問題にするのは公立の義務教育に限った話です。
それ以上のとこの話をする気はありません。
だって義務じゃないんだもの。
云わんや大学なんてのは少なくても人文や社学は、コロナがあろうがなかろうがオンライン授業が当たり前であるさえと思料します。
それが問題になる…
というのは、取りも直さず大学の幼稚園化が進んでいる証で、それはそれで別問題ですので、今日のお噺からは省きます。

で、公立の義務教育に限ったとこでの、問題は?
ずばり、逃げ場がないことです。
即ち、如何なる危険な感染症が蔓延していようと、それ相当の年限以下の者は指定の学校に通わなければならないのです。
これが大人(この際義務教育修了者という意味)なら、命あっての物種と逃げることもできますが、義務教育中の者はそれができないのです。

また別の方向からみれば、大人が住まってるのは自らが選別した自己と同一属性の者のみで構成される、閉鎖社会です。
義務教育学童たちがいるのは、誰が入ってくるか分からない開放社会なのです。
こと今回の感染症問題に視点を絞れば、コロナ感を全く異にする者達が否応なしに共存せざるを得ない空間なのです。

コロナ対策から離れた問題に発展せねばいいが…

この言葉は齋藤杏花 (さいとうあんな)は好きでないので殆ど使う事はありませんが、いじめね。
やれマスク着用、やれワクチンで、価値観の多様化とやらが認められず多数暴力主義が成り立ちやしないか?

これもまた、従前からの恒常的問題の対処を一寸伸ばしにしたきたのを、コロナ禍惹起でいっぺんにツケを払わされる事となった事例の一と言えましょう。

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