コロナ禍によるオンライン授業が惹起した大学不要論 …とまで言っちまったら、噺が大仰過ぎると思いますが

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朝からお日様さんさん。
雨戸開けたら、文机を日光が直射したもので、また半分閉めました。
東海より西が異様に早く梅雨入りし、おらほうも、と感じたのですが、むしろ平年より遅れてしまったようですね。
6/6にあめざあざあ、で南関東の平均的梅雨入り日は昨日あたりだというのに、しばらくはこの天気が続くようです。

さあて、ここにオウマーの先駆け的存在である西村新人類という方がいます。
前にこのBLOGでもお話したことがありましたが、五輪観が正反対と言う事もあって、このとこすっかり遠ざかっておりました。
それが昨日の記事。久しぶりにおっ!と膝を乗り出して読む事となりましたので、今日はその噺をいたしとう存じます。

タイトルにしましたが、大学不要論ねえ。
国立大学出させてもらってる齋藤杏花 (さいとうあんな)とすれば表立って言うわけにもいかないので、いつも歯切れの悪い論調となるのですが…
今回もまたその轍を踏むであろうと、最初から煙幕張っときます。

まあコロナ禍で大学が非対面授業ばっかとなれば、最大公約数的思考で「大学っちゃ本当に要るの?」ってことになりますわな。
西村氏も件の稿冒頭で、大教室授業~って、と論じてます。
でもね、でもね、またしてもでもねなんですよ。

某国大社会科学系学部卒の私の経験すらすれば、今役に立ってるのは大教室授業の方なんですよねえ。
むしろ、って非常にバチあたり且つリスキーな発言となるのですが、何の役にも立たなかったのはゼミ等少人数の教室で学んだ事なんです。
ウチのガッコっちゃ人数が少ないことが自慢、ベビーブームの際も人数が少なければ少ないほど授業が充実するの哲学の下、ついに定員を増やさなかった事が語り草なんですから。
だからね、具体的に何専攻したか云っちまったら、身バレの危険性を孕むわけなんですよ。
そんな中、飲み会等一切辞退でよくまあ気まずくならなかったもの…

おっと、余分な話!
元に戻せば、そんな神経まですり減らして受けた授業が今となってはなんの役にも立ってないんです。
あまつさえ、片道2時間半もただただ厄介事に遭うために費やして。
いやいや、厄介事ばかりでもなかったなあ
、って今日はその話でない、莫大な原価をかけた事が役立ってないって話でした。
役に立ってるのは、聴講、盗講、公開講座等々で得た知識、これらいずれも一方通行の講義形式です。
まあ、子供の頃から実父の秘書めいたことやって (て働く先も学問する機会も十分あっ) た齋藤杏花 (さいとうあんな)にとっての、大学の位置づけが一般教養を身につける為のみだったせいでしょう。
何せ大学など端から取立てて行く気もなかった、高三秋に降参で漸く受験勉強やり出した位で全然真剣じゃない、とまた余分な口。

ですから大学不要論を論じるなら、大教室授業か少人数かではなく、学問の種類で論じるべきなんですよ。
今東光和尚が…
とまで書き掛けて、ふと気付いた。
まだこのBLOGでは触れてなかったんですね、
というより、FBにしたのは自己コメだったもんだから、復元してる訳はありませんでしたよ。
今書きます。

独学に続ければ。
『毒舌日本史』で東光和尚が、
「大学が必要なのは自然科学だけ。人文や社会科学は独学で十分」
といってるのを見つけた。
そう、今になって。これを十代で見つけてれば別の今があったかも、ね。
「三流大学など行く価値はなし」は当時みつけたのだが。

2019/07/26 14:46


つーことで驚くなかれ、大学不要論なんてのは、なんと半世紀以上前からされてたんですわ。
んで、再び自己語りワールドに突入するなら、あれはJK1夏休みでした。
なんかの講習に参加した時だったと思います。盛んに数学やるようにって薦められたんですよ。
ま、嫌味なようですが、数学ならいつも確実に満点とってましたから。

「惜しいなあ。東大の数学受かるのに」

全然ピンときませんね。少なくてもそんな人生目標など欠片もありませんでした。
ま、申し上げたように高三秋口まで大学行く気さえなかった私ですから、その折は取り立てて喜ぶでなしかといって反発する (注:その後、文系理系のカビの生えたようなカテゴライズに嫌気し反感に変わる) でもなく、意にも介さなかったんですが。(注:なんですか?学際的研究という言葉はそれこそ東光和尚の時代には既にあったというのに、未だに文系だ理系だって学問自体をカテゴライズしちまって!)
もしこれがの世界で、高一夏前迄に毒舌日本史を読んでたとしてら、ですよ。

言われるままにそのように進路を辿り、今頃この齋藤杏花 (さいとうあんな)は第2のコンスタンス・レイドになってたかもね、あはっ!

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